新居宮池は今
ネイビーブルーに染まる宮池の水面と上空。
宮池の住人「水鳥」。
宮池の住人「鯉」。
宮池の水面に容赦なく照り付ける夕陽。
Akijii-blog巻頭言Repeat-153 Orignal掲載日:Vol.299 (2014.12.25)
実績の積み重ねが…。
「カリスマ」といえば、一般人が持っていないずば抜けた才能を持ち、人を引き付け、心酔させる人ということになろう。また、特定のジャンルにおいて、他を寄せ付けない、圧倒的な技量を示す人も「カリスマ」と呼ばれる。
リーダーとして、人を集め束ねていくには、そうしたカリスマ性は欠かせない。
ここで判断を誤ったら組織の運命が断ち切られてしまうという絶対絶命の場面であっても、この人に従(つ)いていこうと思わせるほどの信頼感を感じさせるのが、カリスマなのだ。
急を要する判断は、リーダーがこれだと決めて、あとの者はそれを信じて突っ込んで行くしかない。
そういうふうに、自らに従う者たちの生死を一身に引き受けて、究極の選択を続けていたのが、戦国時代では信長であり、家康であった訳であるが、何らかの魅力、有無を言わせぬ説得力があったから、誰もが彼らの言葉に従ったのだろう。
カリスマは本来、神から特別の賜物(たまわりもの)を授かった人という意味だそうだが、生まれつきの資質だけで、絶対絶命の場面で人を動かすだけの説得力を持ち得るとは考え難い。
やはり、何がしかの実績の積み重ねがあってこそ、初めて人を説得し、従わせることができるようになると思う。
記録によると、信長は生涯におよそ130回に及ぶ、敵味方入り乱れての野戦を戦っている。
秀吉と家康はそれぞれ150回、毛利元就に至っては260回に及ぶそうだ。
こうした野戦を生き延びてきた百戦錬磨の経験が、自らを成長させ、また家臣たちを瞠目(どうもく)させたのだ。
こうして彼らは生まれついてのカリスマ性を、さらに高めていった。
ところで、明智光秀は生涯において、野戦の経験がほとんどない。
唯一の例が、秀吉と天下を争った山崎の合戦であった。その他の戦いは、すべて城という要塞を攻める補給戦で、彼は多くの敵が自分めがけて挑みかかってくる野戦を非常に恐れていたようだ。
こうした人物にカリスマ性を感じるだろうか。結局、光秀は生涯で最も重要な賭けに敗れ、農民の槍で殺されてしまう。光秀とて、リーダーとしての天分がなかったわけではないだろうが、彼には決定的に経験が足りなかった。
カリスマ性というものは、血で血を洗うような修羅場をいくつもくぐり抜けることで本当の力になっていくものだ。
<高く広がる空間>
ウォーキングコースから見る猪尻山・城山の上空。
ウォーキングコースから見る袋山の上空。
ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟・堂山の上空。
ウォーキングコースから見る新居新池と奥の山々の上空。
A seasonal flower
新居宮池親水公園に咲くタイサンボク(泰山木)
ウォーキングコースのMs宅の白花ネムノキ
ウォーキングコースの各所に咲く百合・アマリリス・カサブランカ
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<akijii展-(599)>
「スクラッチアート(きらめく海と珊瑚礁のファンタジー6点)」-今報は№4です。
所要時間は535M(8.9H)でした。
引き続き、Vol.1041-2/3をご覧ください。