Vol.1027-2/5 R巻頭-139。気ままniフォトSketch<高松町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.1027-1/5に続けてご覧ください。

 

Akijiiままniフォトsketch<高松町 

今報は、高松町の喜岡寺・高松城跡と菱の池公園、延命寺の気ままniフォトSketchをしました。

 

▼所在地、高松城跡・喜岡寺

高松市高松町:〒761-0104

 

▼菱の池公園、延命寺

 

 

▼JR屋島駅で下車、JR屋島駅を出る

 

▼駅前広場に「やしま石碑」と奥に屋島、JR高徳線の前田踏切へ進む-1

 

▼JR高徳線の前田踏切へ進む-2

 

▼JR高徳線の前田踏切に着いた、JR高徳線の前田踏切(県道30号線)を南に渡る

 

 

▼県道30号線から左へ入る、高松城跡・喜岡寺へ向かう(約0.8Km)

▼高松町を東方向に進む-1、左は屋島ファミリーホーム

 

▼高松町を東方向に進む-2

 

▼高松町を東方向に進む-3

 

▼次の交点を右折、高松町を南方向に進み次の交点を左折

 

▼高松町を東方向に進む-4、前方奥に高松城跡・喜岡寺が見えて来た

 

▼次の交点を右折して高松城跡・喜岡寺へ進む、交点の左(東)は永之谷公園

▼高松城跡・喜岡寺沿いに南へ進む

 

 

フォトSketch-喜岡寺・喜岡城

喜岡寺(きおかじ)は、真言宗御室派の寺院で、山号は栄松山、本尊は不動明王である。

1229年(寛喜元年)に覚行法親王が常光寺として開基したが、後に焼失し長らく廃寺となっていた。ところが、1592年(文禄3年)に古高松村の旦那衆が常光寺の復活を願って堂宇を建築し、この地がかつて喜岡城跡であったことから喜岡寺として中興した。境内はかつて高松城(別名:喜岡城、以下同上)の本丸であった。この高松城は現在の高松城(別名:玉藻城、以下同上)とは別の城であるが、玉藻城の名前はこの「高松」を引き継いだものであり、この一帯は現・高松市の地名のルーツでもある。

喜岡城は1335年(建武2年)に建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(後に地名をとって高松頼重と名乗る)が築城するも、同年11月26日に足利尊氏の臣下、細川定禅らの軍勢によって落城する。しかし、頼重は生き延び、子孫の高松頼邑によって城は再建。その後香西氏に属したが、1585年(天正13年)4月26日に豊臣秀吉の長宗我部氏に対する四国攻めに際し、宇喜多秀家を総大将とする約2万3千人に攻め込まれる。対する頼邑側は長宗我部氏からの援兵を合わせてわずか200人の兵をもって戦うも敢え無く、全員が討死し喜岡城は再び落城した。この事件は結果的に讃岐における最後の軍隊同士による戦の舞台となった。その後1590年(天正18年)に生駒親正が香東郡篦原庄玉藻浦に城を築き、現在に至るまでこの城を新たな高松城とした。この時喜岡城周辺では地名として「高松」が定着していたが、新たな高松は玉藻城とその城下町を指すよう変更されたため、元祖高松の地域は「古高松」と改名され、現在でも周辺の地区名として使用されている。

 

▼高松城跡・喜岡寺に着いた、高松城跡・喜岡寺-1

 

▼高松城跡・喜岡寺-2

▼高松城跡・喜岡寺-3

 

▼高松城跡・喜岡寺-4

 

▼高松城跡・喜岡寺-5

 

▼高松城跡・喜岡寺-6

▼高松城跡・喜岡寺-7

 

▼高松城跡・喜岡寺-8

 

▼高松城跡・喜岡寺-9

 

▼高松城跡・喜岡寺-10

 

▼高松城跡・喜岡寺-11

▼高松城跡・喜岡寺-12

▼高松城跡・喜岡寺-13

 

▼高松城跡・喜岡寺-14

 

▼高松城跡・喜岡寺-15

 

▼高松城跡・喜岡寺-16

 

▼高松城跡・喜岡寺-17、高松城趾・喜岡寺の隣の権現宮に寄る

 

 

▼権現宮-1、左に高松城跡・喜岡寺の墓地

 

▼権現宮-2

 

▼権現宮-3

 

▼権現宮-4

 

▼権現宮-5、権現宮から隣の高松城跡へ進む

 

 

▼左奥に案内板が見える、高松城跡の入口に着いた

 

▼高松城址の石標、高松城跡(喜岡)の案内板

▼ウォークルートマップ(○印は現在地)、高松城跡(喜岡)へ進む-1

 

▼高松城跡(喜岡)へ進む-2、左奥は権現宮

 

 

引き続き、Vol.1027-3/5をご覧ください。