Vol.1002-1/3 R巻頭-114。歴史(観て歩き)レポ-<西讃>総集編 | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

夕焼け染まる宮池2景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-114  Orignal掲載日:Vol.208 (2031.09.05)

「見かけ」・・・。

 

「人は見かけによらない」という言葉があるが、勿論そういうこともある。

やくざ顔の阿籐 快が気の良いおじさんだったり、マジメ顔の学校法人の理事長がド変態だったりと多々ある。

「ボロは着ても心は錦」という言葉もあり、そういうことも実際にある。

だが、普通「見かけ」で判断するもので、判断してもいいのである。

それは一見(いちげん)の顔、すなわち、始めて会う人間は、それ以外に判断のしようがないからだ。

 

「見かけ」とは顔だけではないが、人はまず顔でその人間を判断する。そして、身なりでその判断を差し引いたり、加えたり調整する。「ボロ」を着ていれば、いきなり「ばっちい」と容赦なく判断する。

赤の他人にはなんの義理もないからだ。そういう判断をしてもいいし、されても仕方がないのだ。

髪を茶に染め、唇にピアスをし、首からドクロのペンダントを下げ、腕にタトゥーをして、おれは真面目だと言っても、いや、にいちゃん、それは無理というものだ。

 

このような考え方に異論がある方もいるだろうが、だが、人は他人の顔を見て、その内面を解読しようとするものである。顔が一人ひとり違うからには、違うだけの意味があるだろう、と。

だが、判断しても、決めつけない事だ。それは顔と内面(心)が正確に一致しないからである。

もし、その人間と、組織の中であれ、個人的であれ、これから接触が続くことになる場合、第一印象によって判断すべきである。決めつけても固定しなければいい。そして、接触を続ける中で、言葉遣いや、考え方、態度や、趣味嗜好によって、判断の成否を確かめることだ。そしてプラスかマイナスの方向に訂正すればいい。

 

そうして人間を見抜く目を養うことである。とんでもない食わせ者がいるから、それでも解らないことはあるが、それはもう仕方ない。顔だけで飛び付くとロクなことはない。ボロい話と、きれいな顔には十分に注意することである。

 

 

<高くがる空間>

新居新池と奥の火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の上空。

法輪寺(東浜町)の上空。

ザ・セレクトン高松(城東町)の上空。

穴吹邸(城東町)の上空。

城東町2丁目(城東町)の上空。

東濱恵美須神社(城東町)の上空。

東浜港の西岸から見る城東町2丁目の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ご近所のAn宅の庭に咲く皇帝ダリア

 

◇町並巡りで出会ったゲンビリア

 

◇ウォーキングコースに実を付けたセンニンソウ

花(24-09-02撮影)

 

◇Mt氏の畑で成長を続けるパパイア

撮影24-09-04、24-09-27

 

撮影24-11-19

 

 

<akijii展-(558)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は駒犬で、所要時間は250Mでした。

◇完成作品

今報で「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03」を終え、

次報からはスクラッチアート(美しい日本の祭礼4点)です。

 

引き続き、Vol.1002-2/3をご覧ください。