Vol.981-3/5に続けてご覧ください。
<13.国分台遺跡> <撮影:2011.02.20>
讃岐国分寺の北に台地状の五色台が広がり、その南部に国分台(こくぶだい)(標高407m)がある。
国分台山頂を取り囲む崖は、讃岐岩質安山岩溶岩から構成されていて、本岩は風化すると赤褐色の粘土状となる。国分台では讃岐岩質安山岩の赤色風化殻が讃岐岩(サヌカイト)によって被覆され保存されている。
サヌカイトは瀬戸内火山岩類に属する古銅輝石安山岩で、ガラス質で緻密、硬質で、かつ流理に沿ってエッヂ状に割れやすい性質があり、打撃によってナイフ型石器などを容易に作る事が出来る
国分台遺跡からはサヌカイト製の石器が多数見つかっている。国分台南麓には、山頂から崩れてきたサヌカイトの岩片が散らばっていて、地表付近に分布するサヌカイトの岩片は、表面が白く風化膜で覆われたり、風化によって流理に平行な細い凸凹が発達し、ノコギリのようにギザギザしている。
<所在地・外観>
▼国分台-高松市国分寺町国分
▼国分台-旧石器製造の一大センター
約82万m2の広大な平坦地は「国分台」と云われ、旧石器時代を中心とする石器材料サヌカイトの大規模原産地遺跡として有名である。
<概 要><歴史遺産>
▼国分台の:訓練中のヘリが左、ハイキングコースを行く:前方に国分台
この地域は明治時代以降、陸軍第11師団の射撃演習場として使用され、第二次世界大戦後は開拓団入植地となり、その後、陸上自衛隊の実弾射撃練習場になり、現在は立入禁止地となっている。
私は自宅から国分寺ハイキングコースを西方向に進み、白峯寺と根香寺と讃岐国分寺への遍路道(四国のみち)の分岐点まで行き、国分台を目指した。
▼白峯寺(根香寺)への遍路道(四国のみち)から登る、振り返る国分町の風景
▼遍路道-1、もう一息の激励標示板と国分台
▼遍路道-2:遍路転がし、遍路道からの中継塔
▼修業大師、休憩所からの国分台
▼一本松(県道180号線)に到着、県道180号線:反対方向に根香寺
▼県道からの大平山中継塔、自衛隊の「立入禁止」の警告標示板
▼陸上自衛隊の演習場、広々した演習場の一部
▼防衛庁の石柱、演習場から見る大平山中継塔の方向
▼サヌカイトの原石か-1
▼サヌカイトの原石か-2、サヌカイトかを調べるakijii、
昭和30年代に遺跡の存在が知られてからは、数度にわたる踏査や確認調査などが行われ、原産地での生産の様子や県内外にサヌカイト石材が運ばれていた事が解って来た。
▼演習場から国分寺町方向を見るakijii
▼自衛隊演習場から東方面
▼自衛隊演習場から南方面
▼自衛隊演習場から西方面
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
<14.石船石棺> <撮影:2015.08.11 and 2016.11.01 and 2017.05.28>
この石棺は、鷲ノ山産の石英安山岩質凝灰岩(俗に鷲ノ山石)で製作された「刳抜式石棺」と呼ばれるものである。石舟池の堤防下で発見され、明治42年に地元青年団によって現在の石船天満宮の境内地まで移され、露出展示されている。このような刳抜式石棺は、古墳時代前期後半から中期前半(4~5世紀)にかけて香川県内の大型の前方後円墳に限定されて棺として使われていた。
鷲ノ山産の石棺は、本市石清尾山の石船古墳(国指定史跡)をはじめとして中讃地域など県内8例の他、大阪府柏原市で2例確認されている。このことから、鷲ノ山周辺が古墳時代前半期における石材産地および石材加工の一つの中心として広く知られていたことがわかる。 (高松市HP)
<所在地・外観>
▼石船石棺(いしぶねせっかん)-高松市国分寺町新名1886
▼石船石棺-大阪まで運ばれた鷲ノ山石棺
JR国分駅の南へ約2.4km、国分寺町新名の石船天満宮境内には、鷲ノ山産の石英安山岩質凝灰岩の割竹形石棺(石船石棺)がある。
▼石船天満宮へ向かう-1
▼石船天満宮へ向かう-2
▼石船天満宮へ向かう-3
<概 要><歴史遺産>
▼石船天満宮-1
▼石船天満宮-2
▼石船石棺-1
▼石船石棺-2
付近には、石棺製作工房があったと考えられる。
高松市石清尾山古墳群など県内8つの前期古墳は勿論の事、大阪府柏原市の松岳山(まつおかやま)古墳や安福寺(あんぷくじ)石棺にも使われている。
▼香川県の古墳群、石清尾山古墳群(web引用)
▼松岳山古墳(web引用-水彩画風変換)
▼安福寺石棺(web引用-水彩画風変換)
「播磨国風土記」の印南郡(いなみのこおり)(現、兵庫県南部)の条にある「讃岐国羽若(はわか)の石」はこの鷲ノ山石を指すと考えられる。
正しいかどうか私には判断できないが、Web上で次の記述を見つけたので掲載しておきます。
播磨国風土記には、印南郡大国里について『息長帯日女(おきながたらしひめ)命、石作連(やざこむらじ)大来(おおく)を率いて、讃岐国の羽若石を求めたまひき。そこから渡りたまいて・・・』と書かれています。亡き仲哀天皇のために、息長帯日女命、後の神功皇后は自ら讃岐国の羽若石を求め、この竜山に運んで石作連に石棺を造らせ、大阪府藤井寺市の仲哀天皇陵まで運んだと考えられます。
古墳時代前半期における大型前方後円墳の石棺供給地として重要な意味をもっていた。
▼眼鏡橋石蔵移転記念石碑(鷲ノ山石)
▼眼鏡橋(高松市屋島中町民家博物館四国村)-1
<国分寺町石舟地区寄贈>
昔のこんぴら街道沿いにあったこの石蔵とアーチ橋は、国分寺町鷲ノ山産の石(角閃安山岩)で造られている。この石は、古墳時代には畿内に運ばれ、石棺にも使われており、“石舟”の地名の由来となっている。石蔵は、明治中頃に造られたもので、四国では大変珍しく、当時としてはぜいたくな煉瓦を床に張ったモダンな建物である。今でも全く狂いがなく技術的にも卓越した石工の作品である。アーチ橋は“明治三十四年(1901)石工兎子尾与次郎・米吉”が築造したとの銘が頂部の楔石の下面にある。楔石の正面には彩色した鯉と唐獅子の彫刻があり、この様な例はめずらしく全国的にも注目されている。
▼眼鏡橋(高松市屋島中町民家博物館四国村)-2
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
引き続き、Vol.981-5/5をご覧ください。