Vol.954-2/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:41<羽床城跡>
<65.羽床城跡> <撮影:2018.04.03>
羽床城(はゆかじょう)は中世香川の有力武士である羽床氏の居城である。羽床氏は、讃岐藤原氏の祖である綾大夫章隆(あやのだいぶあきたか)の子資高(すけたか)が羽床荘司に任じられ、その子重隆も羽床一帯に勢力をもち、羽床藤大夫と称して讃岐藤原氏の嫡流を継ぐとともに、羽床氏の祖となった。
香西氏、福家氏は羽床氏の庶流である。
羽床氏は羽床を中心として勢力を誇ったが、南北朝期に南朝方となったため、北朝方の香西氏が有力となって、香西氏の陣代を務めるなどしたが、天正六年(1578)香西伊賀守佳清が羽床伊豆守資載(すけとし)の娘を離縁したことから両者が対立・抗争した。しかし、翌年には土佐の長宗我部元親に屈し、資載は天正十年に十河城攻めの陣中で病死した。このため資載の子資吉が家督を継いだ。
資吉は、豊臣秀吉から讃岐領主に任じられた仙石権兵衛秀久に従って島津攻めに出陣したが天正十四年に戦死し、羽床氏の直径は途絶えた。城郭、土塁、壕(埋まって登山道になっている)など、地元民が年二度ほど竹や草木などを伐採保存に努めている。
<所在地・外観>
▼羽床城跡-綾歌郡綾川町羽床下字城下
▼羽床城-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)
▼羽床城跡-讃岐藤氏嫡流(ちゃくりゅう)の居城
ことでん羽床駅から東南へ約2㎞の所に、竹や木で覆われた標高85mの城山(しろやま)が有り、そこに「羽床城跡」がある。
<概 要><歴史遺産>
▼ことでん羽床駅、国道377号線を南に横断
▼一般道を東南に進む-1、羽床小学校
▼一般道を東南に進む-2、右折して県道278号線交点へ
▼県道278号線を南に横断、羽床城跡への石標
▼一般道を東南へ進む、羽床城跡(本丸)への登り口(北口)に到着
羽床城は、讃岐藤原氏の祖綾大夫章隆(あやのだいぶあきたか)の子資高(すけたか)が築城したのに始まる。現在残る城跡は、戦国時代のものである。こじんまりした山城のように見えるが、南は阿讃山脈に繋がっており、目の前には綾川が流れている。よい立地条件を備えており、堅固な造り方から言っても羽床氏の居城に相応しい。主郭(本丸)は35m×75mの広さがあり、東部は幅2m・高さ1.5mほどの土塁がコの字形に囲む。その下(北側)に虎口(こぐち)でつながる二の丸・三の丸があり、北の端には幅4m、深さ1.5mの竪堀がある。その他、多くの土塁・竪堀・横堀を組み合わせた防御施設が設けられている。上がり口は北と南にある。周辺には大屋敷(居館跡)・市の庵(市の跡)・射場などの地名・屋号が残り、往時を偲ぶことが出来る。
▼羽床城跡へ北口から登る-1
▼羽床城跡へ登る-2、水の手曲輪
▼本丸跡へ130mの標識、羽床城跡の標識
▼二の丸跡の土塁、羽床城址の石碑
▼羽床城址の説明板
▼綾乃里之墓、長尾家の墓所
▼本丸跡へ向かう、二の丸跡に到着
▼二の丸跡、二の丸櫓台に祀られた社
▼羽床氏を祀った社、羽床城址碑
▼虎口の跡
▼羽床城の本丸跡
▼東口へ下山-1
▼本丸跡の土塁-1
▼本丸跡の土塁-2
▼東口へ下山-2、東口へ下山した
▼「羽床城あと」標示板、羽床城址:東口の説明板
▼本法寺へ向かう、本法寺の寺標
▼羽床資載内室キヌの墓
<関連遺産>
羽床城の南東約700mの所(綾川町今滝)に八坂神社が有り、八坂神社の社殿の立っている丘陵上は、羽床上城(かみじょう)の城跡である。羽床氏配下の今滝五郎左衛門がいた事が知られている。
▼八坂神社の鎮守の森、八坂神社(羽床上城跡)への上り石段
▼八坂神社(羽床上城跡)への上り道
▼八坂神社(羽床上城跡)に着いた、八坂神社(羽床上城跡)-1
▼八坂神社(羽床上城跡)-2
▼八坂神社(羽床上城跡)-3
▼八坂神社(羽床上城跡)を下りる
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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