Vol.953-2/4に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:40<琴電滝宮駅本屋/綾川町生涯学習センター・滝宮天満宮/滝宮神社・岡の御堂古墳>
<62.琴電滝宮駅本屋>・<綾川町生涯学習センター> <撮影:2016.05.02>
琴電滝宮駅は、琴平電鉄(現、ことでん琴平線)の停車場として建設され、大正15年11月30日に竣工した。
12月21日に栗林公園~滝宮間がまず開通しているため、当初は暫定的な終着駅であった。
駅本屋の設計者は明確ではないが、社長の大西虎之介が阪急・阪神・南海電鉄の駅本屋(ほんおく)を見聞して、各駅本屋の設計にあたったとされる。施工者の早谷川栄については詳細不明である。
線路の西側に南面して建つ平入りの建物、屋根は袴腰屋根で急勾配に噴き下ろされる。正面(南面)出入口上には千鳥に袴腰屋根が突き出し、妻壁は方丈で支えられる。屋根瓦は噴き替えられているが、当初から洋瓦葺きであった。外壁は妻部も含めて現在では下見張りであるが、竣工時の写真及び設計図ではモロタルスタッコ壁に柱を装飾的に露わにするハーフチンバーでまとめられている。滝宮駅本屋は、屋根の形状や外壁の仕上げに大正期の住宅と共通する要素をもつ、瀟洒な建物である。大正末期の私鉄駅本屋の特徴がよく表れている。
綾川生涯学習センターは、「図書館」及び重要文化財である十一面観音像を含む「町ゆかりの文化財の展示」の二つの機能を中心として整備されたものです。十一面観音像は、滝宮神社の別当寺綾川寺が廃寺になり神社の森の小堂に安置されていたのを綾川生涯学習センターに移転され、新しい建物の部屋の中央、ガラスケースに安置されている。明るい照明の下間近で360度観察できる。天衣、裳、 条帛などが、大変よく観察できる。レプリカかと思わせるほど保存がよく見え、綺麗な像である。
<所在地・外観>
▼琴電滝宮駅、綾川町生涯学習センター-綾歌郡綾川町滝宮546、綾歌郡綾川町滝宮299
▼琴電滝宮駅本屋、綾川町生涯学習センター-大正時代末期の瀟洒な駅舎、木造十一面観音立像(国重文)を見る
「琴電滝宮駅本屋」は、琴平電鉄(現、ことでん琴平線)の停車場として竣工した駅舎で、暫定的な執着駅として整備された。
<概 要><歴史遺産>
▼琴電滝宮駅-駅構内、改札口
▼琴電滝宮駅-滝宮駅本屋-1
▼琴電滝宮駅-滝宮駅本屋-2
▼琴電滝宮駅-改札口のプレート、近代化産業遺産認定書
滝宮駅のすぐ北に綾川町役場があり、町役場に隣接して「綾川町生涯学習センター」がある。
▼綾川町役場、綾川町生涯学習センター(web引用)
このセンターの展示室で、堂床(どうとこ)区所蔵の「木造十一面観音立像」(国重文)を見る事が出来る。この観音像は、右手を垂下し、左手は上に曲げ水瓶(すいびょう)をとり、頭には10の仏面と如来形、髻(もとどり)上にも仏面をおいたもので、ヒノキの一木(いちぼく)造となっている。
▼木造十一面観音立像-1(web引用-水彩画風変換)
平安時代中期の10世紀の作で、讃岐における仏像製作の歴史を知る上で貴重な像である。
▼木造十一面観音立像-2(web引用-水彩画風変換)
元は、北山龍燈院(きたやまりゅうとういん)綾川寺に所蔵されていた。
明治時代初期の神仏分離に伴い廃寺となったので、それ以後、堂床区の人たちに寄って祀られてきた。
▼北山龍燈院綾川寺跡、滝宮神社-観音堂(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
<63.滝宮天満宮・滝宮神社> <撮影:2012.08.10 and 2015.11.04>
滝宮天満宮は、学問の神様で毎日ご祈祷の受付、お守りを授与している。天神様にあやかりたいと県内外の多くの受験生や就活生が合格を祈願しお参りをしている。天満宮の祭神は、菅原道真である。
滝宮天満宮には、讃岐七福神の一つ、福禄寿を祀っている。福禄寿は人々に幸福をもたらし大願成就の道を授ける神様である。五穀豊穣と雨乞いを願う千年以上続く神事である滝宮念仏踊りは国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
滝宮神社は、和銅2年(709)行基菩薩当国へ奉勅下向の時、阿野の川辺に岩窟の霊区のあることを感見し、一宇を建立し巖松山綾川寺龍燈院と号した。その後、神託により「6月8日綾川の滝淵から応現し給ふ霊神を御維新迄旧号を瀧宮牛頭天王社と称し、往昔より五畿八道の一南海の惣鎮護と仰がれる」。
当社は古くから滝宮の産土神として里人の崇敬が厚く、往古より牛馬の守護神として県内外から参拝し牛馬安全を祈願する人々が多い。また「滝宮念仏踊」の起社としての姿もとどめていて、毎年8月25日に行われる滝宮念仏踊は国の重要無形文化財にも指定されている。滝宮天満宮と合わせて滝宮両社と呼ぶ。
<所在地・外観>
▼滝宮天満宮・滝宮神社-綾歌郡綾川町滝宮1314/1347
▼滝宮天満宮・滝宮神社-菅原道真伝説の地、念仏踊りの中心地
ことでん滝宮駅から県道282号線を西へ150mほど進むと、「滝宮天満宮」がある。
<概 要><歴史遺産>
滝宮天満宮は、948(天暦2)年に菅原道真の霊を鎮めるために龍燈院綾川寺(明治時代初期に廃寺)の住職空澄(くうちょう)に寄って、道真の官舎跡に創建したと伝えている。その後、康暦年間(1379~81)に細川頼之が再建・補修し、戦国時代に兵火で灰燼(かいじん)に帰したが、1587(天正15)年に生駒氏が再建した。
▼ことでん滝宮駅、県道282号線を西へ
▼滝宮天満宮-1
▼滝宮天満宮-2
▼滝宮天満宮-3
▼滝宮天満宮-4
▼滝宮天満宮-5
松平氏入府後の1648(慶安元)年には、高松藩主頼重によって制札(せいさつ)がくだされ、滝宮の念仏踊は貴重な神事として保護される事になった。毎年8月25日、旧綾南町と旧綾上町で組織している滝宮念仏踊保存会による奉納が、滝宮神社・滝宮天満宮の両社で行われる。
▼滝宮の念仏踊像(道の駅滝宮)
滝宮天満宮の約100m西隣に「滝宮神社」がある。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、近世以前は滝宮牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)(八坂神社)と呼ばれた。
▼滝宮神社に到着、随神門:1
▼滝宮神社-随神門:2
▼滝宮神社-鳥居、境内
▼滝宮神社-拝殿
▼滝宮神社-拝殿扁額、本殿
▼滝宮神社-観音堂(web引用)、滝宮の念佛踊碑
滝宮天満宮から滝宮神社にかけては、戦国時代の滝宮氏の居城、滝宮城跡である。
西に綾川が流れ、天然の堀となっている。1579(天正7)年、土佐の長宗我部軍が讃岐に侵攻した時、羽床氏が長宗我部氏にくだった事で、滝宮城主滝宮弥十郎も長宗我部氏の配下となった。
滝宮神社の西隣には、綾川相滝龍門(あいたきりゅうもん)(通称オミタライ)と呼ばれる渕が有り、そこには「龍が棲み、深い龍穴の先は阿波の鳴門に抜けて龍宮に通じている」と言われた。
江戸時代には、ここで龍燈院の住職による水天供(すいてんく)などの雨乞い祈祷が行われた。
滝宮の念仏踊は、主にこの滝宮神社に奉納された風流(ふりゅう)芸能であった。
▼滝宮城跡、綾川相滝龍門の位置図(web引用)
享保から文化年間(1716~1817)に書き継がれた「滝宮念仏踊記録」に依れば、近世初頭には県内一円から滝宮神社に念仏踊が来たが、後には4郡からのみの奉納に成ったと言う。
元和年間(1615~24)には多度郡の南鴨念仏踊りが滝宮奉納をした事が史料から解っている。
江戸時代から近代にかけては那珂群・鵜足郡・阿野郡北・阿野郡南の4地域の踊組(おどりぐみ)が3年交代で滝宮に来た。現在、那珂郡の踊組は途絶え、鵜足郡は坂本念仏踊、阿野郡北は北条念仏踊に繋がる。
▼坂本念仏踊-1(web引用-水彩画風変換)
▼坂本念仏踊-2(web引用-水彩画風変換)
▼南鴨念仏踊(web引用-水彩画風変換)
阿野郡南は「滝宮の念仏踊」(国民俗)に繋がり、現在は地元綾川町11組の踊組(北村組・萱原組・千疋組・山田上組・山田下組・東分組・羽床上組・羽床下組・小野組・西分組・牛川組)によって奉納されている。踊りは、タカラバチとよばれる雨笠を被り、団扇や鉦(かね)を手にした外鉦(そとがね)や青竹をもった警固(けいご)が取り巻く中、法螺貝・笛・鼓・外鉦の伴奏や「ナムアミドーヤ」「ナームデ」の念仏に合わせて、下知(げんじ)と2の人中鉦、太鼓打の計4人の中踊(なかおどり)が踊る。
中でも下知は花笠を被り、大団扇をもって踊りの中心を担い、飛び跳ねるように踊る。
▼滝宮の念仏踊-1(web引用-水彩画風変換)
▼滝宮の念仏踊-2(web引用-水彩画風変換)
▼滝宮の念仏踊-3(web引用-水彩画風変換)
▼滝宮の念仏踊-4(web引用-水彩画風変換)
踊りが終わると、宮めぐりといって宮司が本殿から綾川竜穴の方に向かってかざした金幣の下を通って、全員が本殿・拝殿の周りを時計回りに3周する。毎年8月25日に行われている滝宮奉納は「常例(じょうれい)」と呼ばれ、江戸時代には菅原道真の菩提会(え)に奉納されていたもので、道真の供養のために踊られていた。
▼絵図
雨乞い踊は、これとは別に臨時に奉納されるもので、このときには団扇も水色に飾られ、特に下知のもつ大団扇は常例の「日」「月」から「水」「雨」の文字に変えられる。
近年では、1994(平成6)年に雨乞い念仏踊が奉納された。
▼念仏踊の大団扇(日)、(月)(web引用-水彩画風変換)
▼雨乞い踊(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
引き続き、Vol.953-4/4をご覧ください。