Vol.950-3/3 R巻頭-62。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:37<西光寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.950-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:37<西光寺>

57.西光寺 <撮影:2013.04.23 and 2014.05.13 and 2017.09.13>

川辺に立つ寺院で、その姿が水面に写り大変美しい。境内には、江戸時代末期に多度津藩で建造した船屋形を床や襖建具など当時のままで茶室として用いている。船屋形の形を残している数少ない船の遺物である。

西光寺(さいこうじ)は大束川沿いにあり、川面に屋根瓦が写る所謂お西のお寺です。大束川が今の川幅になる以前は、山門 の前に堀があって道があり、川が流れていました。堀にはハスの花が咲き誇っていたそうですが、昭和37年の大束川河川改修工事に伴い現在の姿となりました。街の中心に位置し、周りが開けた場所にあるお寺ですが、今の場所に移ってきたのは、寛永14年(1637年)で、それ以前は青ノ山麓にあり、鍋谷下の道場西光寺と称されていました。

 

鍋谷下の道場西光寺は、今から約800年前、浄土宗の御開祖法然上人が讃岐に御流罪になったことに始まります。法然上人が開き創められた念仏浄土宗は衆生の機にかかわらず、どの様な者でも救われていく道を説き示し、民衆の心にもよく浸透するので、老若男女、身分の隔てなく多く人々が上人の許に集まっていました。

しかしその栄えゆくさまをねたむ余宗の者も多く、ついに承元元年(1207年)2月、上人75歳の折ある事件をきっかけにした承元の法難が起こり、讃岐の地に流罪となられました。同年12月の勅命により許されるまでの間、讃岐の各地を巡り念仏の浄土宗を説き弘めると共に、讃岐文化の開発にも精進されており、各地に今なお多くの足跡が残されています。この事柄については現在でも多くの方々が研鑽されています。

 

上人が12月8日附けの勅命にて許され都へ御帰りになる道すがら、讃岐の地に居られた間いつもお供していた弟子然慶の生地、讃岐国鵜足郡鍋谷の里に暫し憩われて、ここに草庵を建立し、阿弥陀如来尊像を安置せられました。上人此の草庵を諦観山西光寺と号すべし、と仰せられ帰洛のおり尊像と共にこの草庵を然慶に賜うたのです。これが西光寺の創りで、時は承元2年(1208年)歳も迫る師走でありました。その後、天文8年(1539年)本願寺第十代證如(しょうにょ)上人のみ弟子進藤向専(こうせん)師に依って、浄土宗は真宗に改められ、大阪石山合戦では第十一代 顕如(けんにょ)上人をたすけて多くの兵糧を本願寺に送っております。                       (宇多津町HP)

 

<所在地・外観>

▼西光寺-綾歌郡宇多津町2198

▼西光寺-華麗な彫刻を施す堂宇

 

 

旧丸亀街道が大束(だいそく)川を渡る新町橋の西詰に「西光寺がある。

 

<概 要><歴史遺産-1>

大束川に面した東側を正面にして山門・本堂が立っている。

 

▼左前方に西光寺、新松橋西詰に西光寺

 

 

寺歴によると、円通寺と並んで当寺にも細川頼之の守護館説がある。

天文年間(1532~55)に向専(こうせん)が本願寺10世の証如(しょうにょ)に帰依して浄土真宗に改宗・再興し、本願寺に援助した事が知られている。

天正年間(1573~92)に再興された後、寛永年間(1624~44)に諸堂が整備された。

 

現在の山門は1810(文化7)年、本堂は1833(天保4)年の建築で、いずれも高松藩の抱え大工櫛橋(くしはし)一族に寄るもので、華麗な彫刻を多用している事が特徴となっている。

 

▼西光寺-山門

 

▼西光寺-本堂

 

▼西光寺-本堂入口、本堂講話(web引用)

 

▼西光寺-北門

 

 

境内には、幕末の多度津藩が建造した日吉丸(ひよしまる)の屋形が礎石に置かれ、瓦屋根を葺き、茶室とした「船屋形茶室」(県文化)が保存されている。

 

▼船屋形茶室-1

 

▼船屋形茶室-2

 

▼船屋形茶室-3

 

▼船屋形茶室-4(web引用-水彩画風変換)

 

▼船屋形茶室-5(web引用-水彩画風変換)

 

▼船屋形茶室-6(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

新町橋西詰の西光寺の道路を挟んで北向いに、「徳山家住宅」(国登録)がある。

清酒「勇心(ゆうしん)」の蔵元で、昭和時代初期に建てられた事務所兼住宅は、切妻造の大規模な本2階建て町屋で、土蔵造に成っている。

 

▼徳山家住宅-1

 

▼徳山家住宅-2

 

 

勇心酒蔵はその後、綾川町に移転し、酒造りの他、米発酵エキスの新商品開発を進めている。

 

▼勇心酒蔵(web引用-水彩画風変換)

 

 

<歴史遺産-2><西光寺の別の姿>

▼西光寺-挿入画(web引用-水彩画風変換)

 

▼西光寺-鐘楼、壁の鉄砲狭間納骨堂

▼西光寺-納骨堂、鬼瓦

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀