Vol.949-6/7 R巻頭-61。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:36<宇多津7寺社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.949-5/7に続けてご覧ください。

 

<54.聖徳院 <撮影:2013.04.23 and 2017.09.13>

讃岐33観音霊場第29番札所である。日本三大薬師の1つ眼の神さんの分霊所となっている。また本尊である聖徳太子の二歳立像は日本三大太子の一つで鎌倉時代の最高の代表作といえる。聖徳太子は生前、親交のあった曽我氏の領地讃岐の国をしばしば訪れていたと伝えられます。7世紀の半ば、太子は、隋との国交を開くとともに摂政となり、律令体制を整えました。当時から港のあった鵜足津の地を派遣者や官人の休憩場所として利用していたそうです。

太子の没後、太子信仰が全国的に広まると、多くの 足跡を残した讃岐の国鵜足津の地にその徳を偲び、法隆寺の僧行信により、天平8年(736年)四国の太子信仰の道場として建立されたのが聖徳院(しょうとくいん)の前身とされています。太子像が造立されたのは、保元3年(1156年)から承元4年(1210年)といわれています。

その時造られた七体のうちの一体が後白河院殿作として祀られ、七堂伽藍を有する聖徳院として建立されました。天承年中(1264年)鎌倉時代、執権北条長時の代、僧空讃上人により真言宗 に改宗「神・儒・佛」の精神道場として再興されました。以後、度々戦火や火災があり、大正8年には大火災に遭い、院のほとんどを焼失しましたが、幸いにも聖徳 太子二歳立像と鎌倉・南北朝時代の仏像五体は無事残されています。       (宇多津町HP)

 

<所在地・外観>

聖徳院-綾歌郡宇多津町1423-1

▼聖徳院-古作・優作の聖徳太子二歳像

 

 

淨泉寺に南隣する「聖徳院」(真言宗)は、文永年間(1264~75)に空讃(くうさん)が創建したとも、正慶年間(1332~34)に良蘇(りょうそ)法印が建立(「御領分中宮(ごりょうぶんちゅうみや)由来・同寺々由来」)したとも伝えられる。

 

<概 要><歴史遺産>

▼聖徳院へ、聖徳院に着いた

 

▼聖徳院-山門、讃岐三十三観音霊場の第29番札所

 

 

出雲の一畑薬師(いちばたやくし)(出雲市小境町)をも祀り、目の神さんとして信仰されている。

 

▼聖徳院-境内

 

▼聖徳院-子安観音堂

 

▼聖徳院-天満天神

 

▼聖徳院-薬師観音と薬師堂、やくよけばし

 

▼聖徳院-一畑薬師如来、水子供養塔

 

▼聖徳院-鵜足ノ松跡、鵜足ノ松(web引用)

 

 

聖徳院には、鎌倉時代末期から南北朝時代の作とされる「木造聖徳太子二歳立像」(県文化)を安置する。「南無仏太子像」とも云われ、上半身は裸、下半身には緋の袴を着けた姿に造られている。

像高は68㎝、容貌も可愛く、2歳像というのに相応しい。材はヒノキで、寄木されている。

四国内でも稀有の像であり、聖徳太子信仰の四国での受容を伺う事が出来る貴重な像である。

 

▼聖徳院-太子堂-1

 

▼聖徳院-太子堂-2

 

▼聖徳院-聖徳太子二歳立像の文化財標示板、木造聖徳太子二歳立像-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼聖徳院-木造聖徳太子二歳立像-2(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

<55.南隆寺 <撮影:2013.04.23 and 2014.05.13 and 2017.09.13>

室町時代創建の曹洞宗の寺である。当寺は、本山から認可された企業、公務員等各種団体、新人宿泊研修の参禅道場である。個人的には早朝坐禅会、年一回の合同摂心会と気軽に参加できる。

当山は、1461年、細川勝元が大川郡福栄村(現東かがわ市白鳥町)にあった寶光寺(今も同所に有り)を宇多津に移し南隆寺(なんりゅうじ)としました。しかし、1466年には丸亀市に移され東福寺と改められました。その後、1588年生駒一正は高松築城にあたり、この寺を浜ノ町に移し見性寺としました。

現在の南隆寺は、見性寺八世照山桃旭和尚により中興されたものであります。   (宇多津町HP)

 

<所在地・外観>

南隆寺-綾歌郡宇多津町1437

▼南隆寺-簡素な方丈形禅宗本堂

 

 

聖徳寺の南隣に「南隆寺」(曹洞宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼東かがわ市福江の宝光寺(web引用-水彩画風変換)

宝光寺は、「安産」の寺として知られ、子宝地蔵の中から地蔵を借りて家に持ち帰ると子供を授かるといわれている。1999年に江戸後期の石庭が発見された。山を背景に岩が約300個並べられていて、枯山水が表現されている。

日本庭園研究会から全国的にも高レベルの石庭と評されている。(東かがわ旅ナビ)

 

 

▼南隆寺へ、南隆寺の入口

 

▼南隆寺-参道、参道階段

 

▼南隆寺-鐘楼山門、山門の梵鐘

 

▼南隆寺-境内と本堂、本堂扁額

 

 

高松築城にあたり、生駒一正は高松浜の町に移し見性寺(けんしょうじ)とした。

現在の南隆寺は、見性寺を本寺としている。

 

▼現在の高松市三谷町の見性寺(web引用-水彩画風変換)

見性寺=現在、三谷町に所在するが、かつては錦町二丁目の弘憲寺横に所在した古刹。

高松市濱ノ町直指山見性寺第十四世徳巖(とくげん)は、同寺歴世中最も傑出した人物で、学徳並に高く、聞こえた高僧であった。高松藩祖・松平賴重公は平生深く徳巌に帰衣せられ、ときおり下屋敷に招いて仏典の講義その他法話を聴かれた。延宝4年8月・賴重公剃髪後、時々藩士およびその他家族ならびに各宗の僧侶を集めて、自ら談義説法せられたものである。ところが徳巌と法泉寺住職了応(りょうおう)とは、いつも俗人の説法聞くに及ばずと出掛けなかった。ところが翌五年八・九月の頃であった。またも英公(頼重のこと)が説法せられるから、徳巌も出よという通知があった。この時も例によってお断りしたところが、是非とも出席せよと申しつけられた。

しかし徳巌はどうしても承知しなかった。

その内再三・再四の矢の催促にすっかり嫌気になったものか、徳巌はにわかに旅の装いをして、弊履(へいり)を棄てるが如く寺を立ち退き、西方を目指した。ほどなくこの事を聞いた英公は「さて今時そんな坊もあることか」と驚かれて「何はともあれ呼び返せ」と、早速追手を差向け、やっと丸亀でさがしあてた。色々となだめすかして連れ帰ったが、徳巌は一旦寺を出たからには、再び見性寺に住む道理がないと言って寺にはいらず、宮脇村にて住んだという。(高松市HP民話より)

 

 

本堂は18世紀後半から19世紀初頭頃の建築で、方丈(ほうじょう)形の簡素な禅宗本堂の特徴をよく残している。

 

▼南隆寺-本堂1、本堂2(web引用)

 

▼南隆寺-坐禅堂1、坐禅堂2(web引用-水彩画風変換)

 

▼南隆寺-お花まつり(web引用)

 

▼南隆寺-松の老木、山門から参道を見る

 

 

南隆寺の過去帳には、宝永・正徳年間(1704~15)に芸州二窓(現、広島県竹原町忠海町)から讃岐に入漁して土着した漁業者の名前が見える。

宇多津においては南隆寺の門徒となったが、最初は高松の見性寺まで出向いていた。

1759(宝暦9)年の、定住許可を求める浦年寄宛の古文書もあるので、漁業史のうえからは貴重な史料となっている。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.949-7/7をご覧ください。