Vol.949-3/7に続けてご覧ください。
<51.本妙寺> <撮影:2013.04.23 and 2014.05.13>
讃岐6番神の一つである。境内を上がっていくと、日蓮大聖人並びに日隆聖人の大銅像が目につきます。
また350年以上前の蘇鉄、城跡のなごりをもつ石垣日隆聖人の手掘りの井戸と伝えられる鳳凰霊水など本妙寺七不思議として多くの見どころがある。
本妙寺(ほんみょうじ)はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興日隆(にちりよう)聖人によって開かれました。当時、この地は将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でも あったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地として大いに栄えておりました。
しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。
それを憐れんだ聖人は法華祈祷をなされ、自らの杖をも って桐の巨木の根本を掘られたのです。するとそこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木には瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りたのです。人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の御威徳に心より感謝したということです。以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられています。お寺の「鳳凰山」という山号も、このお話に由来するものです。 (宇多津町HP)
<所在地・外観>
▼本妙寺-綾歌郡宇多津町1563
▼日隆聖人の銅像、本妙寺-海運業者が支援・建立した寺
宇夫階神社の200mほど南東にある「本妙寺」(法華経)は、京都妙本寺(みょうほんじ)と袂を分かった日隆(にちりゅう)によって建立された。
<概 要><歴史遺産-1>
▼本妙寺-門前、日蓮聖人と日隆聖人の銅像
~言い伝え~「生きていた大銅像」 (宇多津町-町の紹介より)
境内には日蓮聖人、日隆聖人の大銅像が建っていますが、昭和20年終戦当時、大砲や銃の弾として、県庁からこの大銅像にも召集令が下されました。時の住職は大供養会を催し、大きな赤だすきをかけられた大銅像のお別れ法要を営みました。翌日、県庁職員が引き取りのため宇多津へ向かいましたが、鬼無あたりで全員が腹痛やら頭痛で歩くこともできなくなったそうです。「このまま無理して行って大銅像を引きおろせば皆の命も危ないぞ」と共々に話し合い、引き返してしまったそうです。不思議なことにその翌日が8月15日終戦の日でした。天皇の終戦放送を聞いた信者達は、大銅像の前に 集まり読経したといわれ、日蓮聖人、日隆聖人の大銅像には魂が入っていたのだと伝えられています。
▼本妙寺-日蓮聖人の銅像、日隆聖人の銅像
▼本妙寺-山門前の石階段、山門
▼本妙寺-境内、鐘楼堂
▼本妙寺-鳳凰霊水の井戸、日鏡聖人景墓の碑と客殿
▼本妙寺-日義上人景慕の碑と信行院、信行院(塔頭)
▼京都妙本寺(web引用-水彩画風変換)
<関連遺産>
日隆は1420(応永27)年、尼ケ崎(現、兵庫県尼崎市)本興寺を建て、1429(永享元)年、京都に本応寺(ほんのうじ)(のち本能寺)を建て、本能寺・本興寺両山一寺体制とした。
▼本興寺(web引用-水彩画風変換)
▼本能寺(web引用)
そして、文安~宝徳年間(1448~52)には、牛窓の本蓮寺(岡山県瀬戸内市)、備中高松の本隆寺(岡山市)、尾道の妙宣寺(広島県尾道市)など、瀬戸内沿岸においても諸寺を創建した。
▼本蓮寺(web引用-水彩画風変換)
▼本隆寺(web引用-水彩画風変換)
▼妙宣寺(web引用-水彩画風変換)
<歴史遺産-2>
その間、本妙寺も、1452(宝徳4)年に当地の法華信者である海運業者の支援によって建立されたと考えられている。本妙寺には、近世の厳しい不受布施派の定めが解る元禄年間(1688~1704)の「法度定書」が残る。
▼銘文内容(web引用)
本堂は、1743(寛保3)年に大改修されたもので、凸型の内陣をもつ日蓮宗特有の形式をとる。
また境内には、法華信者の鎮守三十番神を祀る「番神堂」もある。
▼本妙寺-本堂
▼本妙寺-番神堂、法華経守護の三十番神(web引用)
しっかりとした寺の石垣は、城郭としての機能も果たせるように成っている。
▼本妙寺-石垣
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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