Vol.958-1/3 R巻頭-70。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:03<豊浜八幡神社-他2> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

宮池の満水の水面と満開の遊歩道のソメイヨシノ桜4景。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-070   Orignal掲載日:Vol.102 (2012.03.05)

誠を尽くし、誰にも…。

 

京セラの創業者、稲盛和夫氏は全国各地で企業経営者に盛和塾を開催し相談を受けているが、その時の一例を紹介します。質問の多くは「どうしたら京セラやKDDIのように成功できるのか」というもので、彼らは「何か成功する秘訣があるのでは…」と思っていると稲盛氏はいう。

 

氏はそれに対して「成功するための特別な方法はない。貴方を中心に社員全員が誰よりも一所懸命に働くようになれば、必ず成功できる」と答える。

特に中小企業の多くの経営者は、自分の会社は「下請けだから」「規模が小さいから」「技術もお金も無いから」、会社が上手くいかないのは当たり前だと思っている。

しかし、経営者がそう思った瞬間から、社員は働く意欲を無くし、本当に企業は伸びなくなってしまう。自分の会社の置かれた状況が悪ければ悪いほど、その中で成功しようとすれば、リーダーを中心に社員全員が誰よりも勤勉に、一所懸命に働く以外方法はなく、神様が「ある会社の社員はあれほどの努力をしているのだから助けてあげよう」と思うほど努力をしなければならない。しかし、社員みんなが自ら進んで一所懸命に働こうとするような雰囲気は並大抵のことではつくれない。

 

そうするためには経営者自身が、成功への燃えるような情熱を持ち、先頭を切って誰にも負けない努力を続けると同時に、私心を無くし自らの人格を高め、社員から信頼され尊敬されるようにならなくはならないと…。

 

稲盛氏は、「人間は弱いもので、困難に遭遇するとそれに正面から挑戦することなく、すぐに言い訳を考え、逃げ出そうとします。しかし、それでは決して成功できません。どのような厳しい状況にあっても、それを正面から受け止め、誠を尽くし、誰にも負けない努力を続けることが、成功するためには必要なのです。」、と総轄されたという。

成功できないお話が私たちの身近にあるのではと…。

 

 

<高くがる空間>

与一橋(牟礼町牟礼)から見る奥の大仙山・遠見山・竜王山・女体山・五剣山の上空。

イサムノグチ庭園美術館(牟礼町牟礼)の上空。

洲崎寺(牟礼町牟礼)の上空。

射落畠(牟礼町牟礼)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇我家の庭に咲く花海棠(はなかいどう)

開花時期は4月初旬~4月下旬頃で、ソメイヨシノ桜に引き続いて咲き出す春の代表花の一つである。

 

中国が原産で、江戸時代初期に日本に渡来した。中国では、牡丹(ぼたん)と共に最も愛好される。

それより前の15世紀に渡来した、実の大きな「実海棠(みかいどう)」に対して花が美しいので「花海棠」と命名されたそうだ。

 

花の色がなんとも美しい。開花前の、赤いつぼみが垂れ下がる姿もとても個性的で、その姿は、さくらんぼに似ている。花言葉は「艶麗(えんれい)」である。

 

◇我家の庭に咲くネモフィラ

 

◇ウォーキングコースに咲いていたロドレイア

 

◇ウォーキングコースに咲く(サクラアオイ)

◇ウォーキングコース脇の畑に咲く八重水仙タヒチ

 

◇ウォーキングコースに咲くスノフレ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<峰鉾神社五輪塔八幡神社  

高木の峰鉾神社は、県道147号太田上町志度線と県道10号線の交差を東に約600m行き南側(右側)に曲がり約200m行くと小さな社(高木の峰鉾神社)がある。一説では天正十年(1582年)土佐の長曽我部元親の先鋒が由良神社を焼き討ちするのを見て長尾清永と云う武将が当神社の敷地に鉾と鏡を埋めたと言い伝えがあり、この社の辺りから東、春日川辺りまでが城跡だったようだ。地名では「西の門」「城屋敷」「とんさん」等が残っている。
城跡の痕跡は宅地化や開墾等でほぼ消滅していて、発掘調査は行われていないので埋没している箇所もあると考えられるが標高約12mの平城で、比定地は三か所(高木の峰鉾神社付近、下田井八幡神社付近、西ノ門荒神社付近)で、当城は由良城の出城と考えられていて、はっきりした資料が無いが天正時代に土佐の長曽我部元親軍侵攻の折に落城したものと考えられている。(参考資料:香川県中世城郭跡詳細分布調査報告書-香川県県教委2003)

 

五輪塔(田井城趾)は、田井城跡(高木の峰鉾神社)から西側に約200mの位置にひっそりと五輪塔が佇んでおります。

また西側に約500m行くと田井八幡神社の一の鳥居前の辺りに成ります。この田井八幡神社も田井城跡西端辺りで、この三箇所はほぼ東西一直線に位置しています。
こちらの五輪塔は建武二年(1335年)に旧高松城、喜岡城跡(現在古高松喜岡寺)の城主頼重を偲んで祀られたもののようだ。五輪塔の状態を見れば相当な歴史が有るものと思われる。地元の方々が年に数回草刈り等の手入れをして、お詣りをされているそうである。

 

下田井八幡神社は、御祭神は応神天皇で、この辺りは元々田井城の西の端に当たるようであり、西側の春日川を天然の堀として防御したと考えられる。この辺り六条、下田井周辺は喜岡城の高松氏と縁が深く、旧貢八幡神社とそれを移転した下田井八幡神社がそうである。旧貢八幡神社の由来は藤原家成十二世の子孫、新庄太左衛門長光で豊臣家の家来で、八幡宮を信仰していた。ある夜の夢に松の高さ十丈余の大木に八幡神が現れた。それで高松氏と改名したと云われている。その後、山田郡田井郷に移り、その子太郎兵衛は長重内匠と改名する。長重は秀吉の家来小西行長に従い朝鮮の陣に赴き戦功をあげ山田郡下田井郷を賜る。慶長四年正月(1599年)の夜、夢で六条の貢八幡宮を遷座する場所を選び行うようにと云うお告げが有り、民に謀り祠を下田井の現在地に移設した。六条の旧貢八幡宮の氏子も最初は当社に移るが、いつの頃からか分かれ六条の鹿島神社を氏神とし、里人は八幡宮のことを「古宮さん」と言い伝えている。

 

▼所在地、高木の峰鉾神社(田井城跡)

高松市下田井町:〒761-0313

 

▼五輪塔(田井城跡)、八幡神社(田井城跡)

 

 

▼ミリオン高松東店、オールストーン高松本店

 

▼県道10号線の左(西北)方向、右(東南)方向

 

▼県道10号線を横断(下田井町に入った)、高木の峰鉾神社へ向かう(約0.4Km)

 

▼下田井町を北に進み次の交点を右折、下田井町を東北方向に進む-1

 

▼下田井町を東北方向に進む-2、左奥に神社の杜が見えて来た

 

▼下田井町を東北方向に進む-3(次の交点を左折)、右(南西)奥に高松クレーター5座

▼下田井町を北に進み次を左折、高木の峰鉾神社へ進む-1(正面中央奥に杜が見える)

 

▼次を左折して路地へ、高木の峰鉾神社へ進む-2

 

 

▼高木の峰鉾神社(田井城跡)に着いた、高木の峰鉾神社(田井城跡)-1

 

▼高木の峰鉾神社(田井城跡)-2

 

▼高木の峰鉾神社(田井城跡)-3

 

 

▼高木の峰鉾神社(田井城跡)を後にして五輪塔へ向かう(約0.2km)、左奥に高木の峰鉾神社(田井城跡)

 

▼五輪塔へ進む-1、左奥に由良山

 

▼五輪塔へ進む-2、右(北東)奥に五剣山と前田山

 

▼五輪塔へ進む-3(前方に五輪塔が見えて来た)、前方の五輪塔のズーム景

 

 

▼五輪塔(田井城跡)に着いた、五輪塔(田井城跡)-1

 

▼五輪塔(田井城跡)-2

 

▼五輪塔(田井城跡)-3

 

 

▼五輪塔(田井城跡)を後に八幡神社へ向かう(約0.6km)、下田井町を西北方向に進む-1

 

▼右(北)奥に屋島、下田井町を西北方向に進む-2(県道10号線を横断)

 

▼県道10号線を横断

 

▼下田井町を西北方向に進む-3、八幡神社の鳥居が見えて来た

 

 

▼八幡神社(田井城跡)に着いた、南方向0.1kmに八幡神社の御旅所

 

▼八幡神社(田井城跡)-1

 

▼八幡神社(田井城跡)-2

 

▼八幡神社(田井城跡)-3

 

▼八幡神社(田井城跡)-4

 

▼八幡神社(田井城跡)-5

 

▼八幡神社(田井城跡)-6

▼八幡神社(田井城跡)-7

 

▼八幡神社(田井城跡)-8

 

▼八幡神社(田井城跡)-9

 

▼八幡神社(田井城跡)-10

 

▼八幡神社(田井城跡)-11、八幡神社(田井城跡)を後にして長専寺(六条町)へ向かう(約0.9km)

 

 

▼県道147号線交点へ進む、県道147号線交点が見えて来た

 

(次報Vol.959に続く)

 

 

<akijii展-(515)

スクラッチアート(日本の名所めぐり6点)

今報は浜みなとみらい21の夜景(神奈川県)」で、所要時間は395Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.958-2/3をご覧ください。