Vol.957-1/4 R巻頭-69。歴史(観て歩き)レポ-西讃編:02<興昌寺・専念寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

宮池のパーゴラのパノラマ景。

パーゴラから見る宮池の水上展望台。

パーゴラから見る宮池のパノラマ景

宮池の水上展望台に射し込む陽光。

西南端から見る宮池の遊歩道の桜並木(遊歩道のソメイヨシノ桜は西側が8分咲き・東ほぼ満開)

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-069  Orignal掲載日:Vol.101 (2012.02.29)

創造。

 

「創造は無より生じる」という説があるという。考え尽くし(脳みそに汗をかくくらい)、頭を悩まし、もうこれ以上は自分には不可能だと行き詰って苦しんでいる時、今までの事を全部忘れ去って、散歩したり、水を見つめたり、鳥の声に聴き入ったりしている。その忘我の時の「無」の中から、恩龍のようにピカッとある想念が閃く。

 

いままでの思考の径とはまるで違う考え方で、自分が一度も考えた事のない、そういう創造の一瞬を、ものをつくる人ほど必ずや多く体験しているだろう。無論、そのような天恵が訪れるためには、自分の取り組んでいる主題に対する最大限の思考の努力があって、ありとある角度からそれを考え尽くしたにも関わらず、形が浮かんでこない。

そんな長い努力と忍耐の時をどんな天才でも持った。

 

リルケ(ライナー・マリア・リルケは、オーストリアの詩人)は、そのことを次のように言っている。

天才、それは長きにわたる忍耐である。いかなる物のなかにも、いまだかつて何人も見ず、何人も表現しなかったものが、潜んでいる。これを取りださねばならぬ。燃える火を、また一本の樹を、描写したいならば、この火が、またこの樹が、ほかの火や樹とは似つかぬものになるまで、ながいあいだ立ちつくさねばならぬ。かくてこそ、独創的になれるのである。

 

また、老子はこんなふうに言った。

目に見えぬ大いなるエナジーを受け入れる心を空(から)にして受け入れる。

この虚(から)の心があってこそ、見えてくるものがある---。

虚心坦懐、心の中を無にし、虚にしたとき、そのまま心の鏡に映る。あるがままに見えてくる。

情報過多な現代、ときにその情報や知識の一切を放し、何もない空っぽの心にする訓練を時々、行う必要があると老子が言っている。          

 

 

<高くがる空間>

自宅前から見る国分寺町の東方向の上空の日の出と飛行機雲。

庵治漁港(庵治町)から見る奥の御殿山と大仙山・遠見山・竜王山の上空。

やすらぎのみち(庵治緑道公園)から見る庵治支所の上空。

城岬(しろばな)公園(庵治町)の上空。

純愛ロード(庵治町)から見る屋島長崎鼻の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇新居宮池の遊歩道のソメイヨシノ桜

 

 

◇盆栽神社の

寒緋桜に代わって山桜が満開の盆栽神社の境内です。

 

◇ウォーキングコースに咲いている枝垂

 

◇我が家の庭に咲くニラバナ

 

◇ウォーキングコース脇と田圃道に咲くカラスノエンドウ

 

 

◇ウォーキングコース脇の畑に咲く

◇我が家の鉢に咲くクリスマスロ

 

 

 

Akijii気ままniフォトsketch<水神社慈照寺>  

清水神社は、由良山を背にした社である。祭神は景行(けいこう)天皇の皇子の神櫛王(かんぐしおう)で、社伝では、祭神の後孫が甕12口の神酒を奉奠(ほうてん)したとされる。清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(西暦841年)は大旱魃(かんばつ)で、国司の命により空海の弟の真雅(しんが)によって雨乞いを行うことになった。雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕(かめ)を使って祈ったところ大成功したといわれる。その後、天正年間(西暦1573~1592年)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。残った2個の甕を社殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。平成24年の神事に際し塚を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6センチ、胴部最大径95センチを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。降雨量の少ない香川県ならではの特殊な雨乞い行事を伝える文化財である。(高松市HP)

 

慈照寺(じしょうじ)は、寺伝によれば往古真⾔宗⾃性院が由良⼭東⼭麓清⽔神社北側に所在した。⾃性院は、清⽔神社の別当寺で平安時代⼤同3年(808)弘法⼤師の弟・眞雅(法光⼤師・801~879)により創建された。承和8年(8412)の⼤旱魃の時、眞雅が⾬乞いの祭祀を司ると、慈愛の寶⾬をもたらし、幾度も有縁のいのちを救済した。戦国時代、⻑宗我部元親⽒の兵⽕にかかり焼失する。天正2年(1574)再興以来住職21代継職する。

明治2年(1869)廃仏毀釈により廃寺となる。また安⼟桃⼭時代からこの地に親鸞聖⼈の説く念仏信仰が隆盛した。

弘化元年(1844)11⽉10⽇に⽣を受けた秋⼭信海(享年58歳)は、念仏聞法道場にかつて所在した⾃性院の寺号をねんごろに継承し、「真宗興正派 ⾬寶⼭ 莊嚴院 慈照寺」と改宗し⼀寺を建⽴した。

信海は御法義が篤く、⼈間の根本苦悩である⽣⽼病死の問題解決・後⽣の⼀⼤事を⼼にかけ、阿弥陀如来のお慈悲を⼼の拠りどころとして、僧俗⼀体となりお念仏のみ教えを聴聞し続け不安と動乱の時代を乗り越えられた。
阿弥陀如来、慈光照護の寺院として佛祖の法燈⼀筋に護り伝道布教⼀層の念仏興隆を懇願して後世に伝える。

 

▼所在地、清水神社

高松市由良町:〒761-0441

 

▼春日川の上流と上佐山、慈照寺

 

 

▼バス停「由良」で降車し清水神社へ向かう(約0.4km)、県道156号線を南方向に進む-1

 

▼右(西)に由良山が見えて来た、県道156号線を南方向に進む-2

 

▼県道156号線を南方向に進む-3(信号交差点を右折)、清水神社の門前に着いた

 

 

▼左側の社標碑を支える狛犬、右側の清水神社の社号標

 

▼清水神社-1、神馬・久保先生顕彰碑

 

▼清水神社-2、神社案内図

▼清水神社-3

 

▼清水神社-4

 

▼清水神社-5、酒呑童子(しゅてんどうじ)の瓦-1

 

▼酒呑童子の瓦-2

 

▼清水神社-6(由良大師堂-1)

 

▼清水神社-7(由良大師堂-2)

 

▼清水神社-8、金比羅社

 

▼清水神社-9、石佛の案内板

 

▼由良山東登山口、清水神社-10

 

▼清水神社-11(神庫)、拝殿

 

▼清水神社-12、開運碑

 

▼清水神社-13(甕塚と御手盥跡)

 

▼清水神社-14(雨乞い神事碑)、天神社

 

▼清水神社-15

 

▼清水神社-16

 

▼清水神社-17

 

▼清水神社-18

 

▼由良城跡石標、清水神社-19

 

▼清水神社-20、振り返る

 

▼清水神社-21(御旅所)

 

 

▼由良橋(春日川)を渡り慈照寺へ向かう(約0.7km)、由良橋から見る春日川の上流方向(正面奥は上佐山)

Vol.957-2/4に続く

 

 

 

<akijii展-(514)

今報からスクラッチアート(日本の名所めぐり6点)です。

今報は「東京タワの夜景(東京都)」で、所要時間は455Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.957-2/4をご覧ください。