Vol.920-3/3 R巻頭-32。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:07<二宮忠八翁銅像・他2> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.920-2/3に続けてご覧ください。

 

道の駅空の夢もみの木パークの一角に、二宮忠八飛行館が立っており、忠八の足跡を解り易く紹介している。二宮忠八翁の子供時代の好奇心や視点(目の付け処)また夢を実現するための努力や、その物語を通じて「21世紀を担う子供達に夢を見る力を育む」をテーマにした展示を行っている。

 

▼二宮忠八飛行館の全景、二宮忠八飛行館に入館-1

  

▼二宮忠八飛行館に入館-1、二宮忠八飛行館内-1

 

▼二宮忠八飛行館内-2

 

▼二宮忠八飛行館内-3

 

▼二宮忠八飛行館内-4

 

▼二宮忠八飛行館内-5

 

▼二宮忠八飛行館内-6

 

▼二宮忠八飛行館内-7

 

▼二宮忠八飛行館ランドマーク

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

11.丸山城跡 <撮影:2017.06.10>

買田地区の北に標高196mの丘陵があり丸山と呼んでいます。この山に登ってみると、 山の山頂に直径30mほどの平坦地があり、これが城の本丸跡で、その東側には幅5m程の通路があり、武士が移動しやすいようになっています。犬走りとか帯郭などと呼ばれています。本丸跡から北と南に尾根筋をたどると、南には幅3mの、北西尾根には幅約30m、深さ10m空堀(からぼり)が設けられております。敵の侵略を阻止するための防護施設で、このように本丸を中心として両側に空堀を設ける構造は仲南町の城郭では他に例がなく、小規模ではあるが、中世の城郭としてはよく整った城郭といえます。   (まんのう町HPより)

 

<所在地・外観>

丸山城跡-仲多度郡まんのう町買田

▼丸山城跡-本丸を中心として両側に空堀

 

道の駅「空の夢もみの木パーク」から、国道32号線を琴平方面に2kmほど下ると、道の右側にJA香川県仲南支店がある。

 

▼道の駅「空の夢もみの木パーク」、国道32号線を北上-1

 

▼左に粂池、国道32号線を北上-2

 

▼国道32号線を北上-3

 

▼国道32号線を北上-4、正面が丸山

 

▼丸山城跡の登り口が見えてきた、JA香川県仲南支店

 

 

国道32号線を挟んだ反対側の丸山(標高196m)の山頂周辺が、「丸山城跡」である。

 

<概 要>

▼丸山城跡の登り口、山頂を目指しひたすら登る-1

 

▼山頂を目指しひたすら登る-2

 

▼漸く赤テープを発見、テープに従い山頂を目指す

 

 

<歴史遺産>

山頂部が主郭である。東側の切岸はしっかりし、帯曲輪(おびぐるわ)が巡っている。

頂部の西側には切岸の急な曲輪があり、更に下った所に堀切が配されている。

主郭の南東側の尾根筋を下った所にも曲輪が配され、更にその下方に堀切がある。

 

▼丸山の山頂に到達、丸山城跡-1

 

▼丸山城跡-2

▼丸山城跡-3

 

▼丸山城跡-4

 

 

一方、北東麗は現在、大きく削平・造成されて民家が立っているが、辺りに「小倉(おぐら)」の地名が残り、「小倉屋敷」の俗称もある。ここに、城主飯尾(いのお)氏の居館が有ったと考えられている。城主の飯尾国盛(くにもり)は、もと阿波国飯尾村(現、徳島県吉野川市)の住人で、三好安正に与(くみ)していたが、天正年間(1573~92)に長宗我部氏に攻められ、讃岐に逃れて丸山城に拠ったという。その後、羽柴秀吉の四国征討によって城は廃城となった。

 

▼丸山から降りる-1

 

▼丸山から降りる-2

 

▼丸山から降りる-3、丸山城跡の登り口に降りた

 

 

<関連遺産>

旧仲南町内には、丸山城跡以外にも、仲南藤目城跡(現、まんのう町大口)、新目(しんめ)城跡(現、同町新目)、本目(ほんめ)城跡(現、同町本目)、春日城跡(現、同町春日)など、多くの山城跡が残っている。

 

▼多くの山城跡の位置図(web引用)

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀