Vol.916-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:03<呑象楼>
<05.呑象楼> <撮影:2016.05.14 and 2017.09.29>
呑象楼(どんぞうろう)は、天保年間(1830~44)の建築で、日柳燕石(くさなぎえんせき)(1817~68)が中年後住んでいた建物で、昭和29年に興泉寺から現在地に移転されました。建物2階にはドンデン返しや、抜刀できないよう天井が低いなど、からくり屋敷になっていますが、建物老朽化のため、現在は一般開放を行っていません。 (琴平町HP)
日柳燕石は榎井村に生まれ石崎近潔・三井雪航・岩村南里・奈良松荘などに学び恩師の二人が勤皇家で有ったため生涯に大きく影響を受けた。21歳で家督を継ぎ33歳まで遊興・博徒と知られた反面、勤皇の志篤く大和十津川義挙に参加すべく元気な若者を集め待機していたが大和義挙が不首尾に終わったが為に出発を取りやめた。高杉晋作も下関で武士以外の若者を集め奇兵隊の組織を作ったのも燕石の意中を表している。高杉晋作が幕吏に追われ燕石を頼って来て榎井に亡命したのをかくまい潜匿(長谷川佐太郎の家(今は丸尾本店という造酒屋)・逃亡させたとがから高杉の身代わりになり4年間投獄された。出獄後に上洛して木戸孝允と行動を共にして軍記方として北陸に従軍中に越後柏崎で病死した。
墓は新潟県柏崎小学校西側にある。
<所在地・外観>
▼呑象楼-仲多度郡琴平町榎井85-1
▼呑象楼-勤王博徒のからくり屋敷
JR琴平駅(ことでん琴平駅)から南東へ進むと、県道206号線に出る。
▼琴電琴平駅、JR琴平駅
町立榎井小学校の北西隅に、幕末の漢詩家・任侠博徒・勤王家と多彩な顔をもつ日柳燕石の晩年の居宅「呑象楼」がある。
<概 要>
▼町立榎井小学校
▼呑象楼-1
元は県道北の旧高松街道西詰の興泉寺(こうせんじ)の前にあり、興泉寺住職が先代住職の隠居所としたものだが、1954(昭和29)年、現在地に移築された。
▼興泉寺
▼県道北の旧高松街道西詰の跡地
<歴史遺産>
からくり屋敷とも呼ばれ、吊り天井の戸板や2階に壁の刳り抜き、回転する壁など、捕り手を惑わせる仕掛けが施されている。
▼からくり屋敷(web引用)
建物側の胸像は、本県出身の彫刻家・小倉右一郎(おぐらういちろう)の第9回帝展(1928年)特別展示品の1つで、日本一の大権現(象頭山)を呑み干すという燕石の気概が表現されている。
▼日柳燕石の胸像、彫刻家・小倉右一郎
燕石は1817(文化14)年、池御料(いけごりょう)と呼ばれ、年貢を満濃池の維持・修繕費にあてた天領の榎井村の質商の家に生まれた。
▼日柳燕石の生家跡
1834(天保5)年の打ち壊しに参加して禁獄され、以後、家業を捨てて西日本各地の賭場をめぐり、博徒数百人を動かす「南海の親分」となった。その間、長州(現、山口県)の吉田松陰・久坂玄瑞・桂小五郎らと交わったが、逃避行中の高杉晋作とその愛妾おうのを当地でかくまい、同志の美馬君田(みまくんでん)と共に高松藩に禁獄された。明治維新で赦免された燕石は、戊辰(ぼしん)戦争(1868~1869年)の北越征討に日誌方として参加し、越後柏崎(現、新潟県柏崎市)で病没した。
<関連遺産-1>
県道の直ぐ北側にある「春日神社」の社頭には、その人となりを漢詩で称えた日柳燕石翁之碑(篆額(てんがく)は山県有朋)が立っている。
▼春日神社-1
▼春日神社-2
▼春日神社-3
▼春日神社-4(春日出水)、日柳燕石翁之碑
神社の北側の旧高松街道沿いには、「丸尾醸造所」(原料蔵及び作業場・東主屋・西主屋・西味噌蔵、国登録)と丸尾酒造店が並ぶ。酒造店は、豪農・酒造業を営むかたわら、勤王家として燕石を支援した長谷川佐太郎の生家である。佐太郎は、幕末に決壊していた満濃池の修復に奔走し、明治時代初期、燕石筆とみられる嘆願書を携え、上京して新政府を動かし、朝敵高松藩と、維新に日和見の京極2藩(丸亀藩・多度津藩)に工事着工を命じさせることに成功した。その工事に自らも全財産を投じ、酒蔵業も手放した。
▼長谷川佐太郎の墓
▼丸尾醸造所
▼丸尾酒造店-1
▼丸尾酒造店-2
呑象楼前の県道282号線を東へ約1km進み、南へ右折すると、まんのう町立四条小学校がある。
▼四条小学校
<関連遺産-2>
小学校南西の薬師堂(立薬師)は、白鳳期から戦国時代の「弘安寺跡」で、燈心礎(とうしんそ)や礎石、1519(永正16)年に四條一結衆(いっけつしゅう)の建てた十三仏笠塔婆が残り、幕末の勤王の蕉風(しょうふう)俳人後藤田田水(ごとうだでんすい)の墓がある。
▼立薬師(弘安寺跡)
▼燈心礎や礎石
▼弘安寺跡の説明板、十三佛笠塔婆の石碑
▼十三仏笠塔婆
▼追善供養十三佛、十三佛真言
▼びんずる尊者、びんずる尊者の説明板
▼後藤田田水の墓所
田水が1869(明治2)年に、同志・俳友を訪ねながら東讃の白鳥神社(東かがわ市)へ、維新成就報恩参詣をした際の紀行文・俳書である「白とり紀行」には、草莽(そうもう)の志士や文人たちの俳諧交流が伺える。
▼後藤田田水の短冊(web引用)
琴平町に残る田水の短冊 --「あそぶつれなくてひながきしわすかな」--。
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀


















































