Vol.914-4/4 R巻頭-26。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:01<高灯籠・金刀比羅宮> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.914-3/4に続けてご覧ください。

 

大坂の豪商鴻池一族の寄進で、高灯籠のある二本樹(にほんぎ)から移転された青銅鳥居のある石段を上ると、旧金光院本坊の地に1659(万治2)年建立の「表書院及び四脚門・奥書院」(ともに国重文)がある。

 

▼青銅鳥居

▼書院-1(四脚門)、書院-2

 

 

表書院は金光院の客殿で、18世紀末に、京都生まれで伊藤若冲の弟子であった10代別当宥存(ゆうそん)が、京都の豪商越後屋の三井八郎兵衛から寄進を受けた、円山応挙の「紙本墨画竹林七賢図・紙本墨画瀑布及び山水図・紙本墨画遊鶴図・紙本墨画遊虎図」の襖絵90枚(いずれも国重文)で飾った。応挙晩年の人物画、写生技法の極みとの評価が高い。

 

▼書院-3(表書院)

 

▼紙本墨画竹林七賢図、紙本墨画瀑布及び山水図(web引用-水彩画風変換)

 

▼紙本墨画遊鶴図、紙本墨画遊虎図(web引用-水彩画風変換)

 

 

奥書院(非公開)は数寄屋風の別当の書院である。奇想の画家若冲の作品は上段の間に残されている。

 

▼書院-4(表・裏書院の説明) 書院-5

 

 

「旭社」(国重文)は、江戸時代の薬師堂(金堂)を明治時代初期に神社としての名称に変えたもので、総ケヤキ重層入母屋造・銅瓦葺き。1813(文化10)年に起工し、全国からの金品と近郷・近在の労力提供を受け、1845(弘化2)年に本尊薬師如来が安置された。

 

▼旭社

 

 

右の賢木門(さかきもん)は、多聞天と持国天を配していた江戸時代の旧二天門である。

賢木門を潜り、更に進み、急な石段を上がると「本社」(本宮)がある。

 

▼賢木門、本宮への階段-1

 

▼本宮への石段-2

 

▼本宮-1

 

 

この地に、初めて社殿が造営されたのは1659年である。

現在の社殿(権現造風)は1878(明治11)年の改築で、2004(平成16)年の遷座祭(せんざさい)に際し、檜皮が葺き替えられた。

 

▼本宮-2

▼神木、本宮高台からの眺望

 

 

社殿前の銅灯籠2基は、1745(延享2)年に高松藩主松平頼恭(よりたか)が寄進したもので、将軍家・御三家と同じ三葉葵紋がある。右横の1基は、1839(天保10)年の土佐藩12代藩主山内豊資(とよすけ)の寄進。参勤交代の際、北山越えで仁尾湊(三豊市)や丸亀湊から室津湊(兵庫県たつの市)へ渡った土佐藩主の信仰が伺える。

 

▼社殿前の銅灯籠2基、社殿右横の灯籠1基

 

 

左奥の睦魂(むつたま)神社は戦国時代末期に、松尾寺に金毘羅神を勧請するまで松尾寺の守護神であった。本社の左手の三穂津姫社は江戸時代の観音堂があった地に建てられている。

 

▼松尾寺-1

 

▼松尾寺-2、三穂津姫社拝殿

 

 

本社から県内最大規模の照葉樹林の中の参道を更に1.2kmほど進むと、「奥社(厳魂いずたま神社)」に着く。奥社は、江戸時代初期に天狗信仰を根付かせて隆盛の基礎を築き、死後、天狗界に入ったとされる4代別当宥盛(ゆうせい)を、明治時代に厳魂彦命(ひこのみこと)とし、1905(明治38)年、修験の地とされる当地に社殿を建て、本社近くにあった威徳殿から遷座した。社殿前の断崖には天狗面と烏天狗面が掛けられている。

 

▼奥社へ、白峰神

 

▼常盤神社、白峰神社

 

▼奥社へ445段、菅原神社

 

▼奥社へ右折れ、奮闘中のakijii

 

▼奥社に到着、厳魂神社-1

▼厳魂神社-2、奥社からの眺望

 

▼断崖の天狗面と烏天狗面

 

 

金刀比羅宮には、多くの文化財がある。

また、境内や街道筋の「鳥居・灯籠・狛犬・玉垣・船絵馬・流し樽類・大漁旗・和船模型」など、1725点が一括して「金毘羅庶民信仰資料」として国の有形民俗文化財に指定されている。

 

▼絵馬殿-1

 

▼備前焼 狛犬、こんぴら狗

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀