Vol.902-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-東讃編:14<長尾寺・宝蔵院極楽寺>
<21.長尾寺> <撮影:2012.01.18 and 2013.07.13 and 2017.05.15>
長尾寺の寺伝によれば天平11年(739年)、行基が当地で霊感を得て聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされる。空海(弘法大師)が渡唐前、当地に滞在し、年頭7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「福奪い」として今に伝わっている。
天長2年(825年)、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められた。幾度かの兵火により堂宇は失われたが、その都度歴代藩主によって再建されている。なお、静御前が源義経と別れた後、母の磯禅師と共に当寺を訪れ、得度したとの言い伝えもあり、静御前の位牌が本堂の左脇陣にある。 (Wikipediaより)
<所在地・外観>
▼長尾寺-さぬき市長尾西653
▼長尾寺-東讃の鎮護の寺、静御前の想いが宿る
ことでん長尾駅から南に50mほど進むと旧長尾街道に出る。
東に曲がって少し行くと、道の北側に四国八十八個所87番札所・「長尾寺」(天台宗)がある。
<概 要>
▼山門-鐘楼門
▼山門のわらじ
長尾寺で出土と伝える古瓦は、奈良時代の蓮華文軒丸瓦なので、長尾寺は奈良時代の創建と云える。寺域も元のままで、条里に規定された方(ほう)1町(ちょう)である。元は法相(ほっそう)宗であったが、江戸時代の1683(天和3)年に天台宗に改宗し、東讃の鎮護(ちんご)の寺とされた。
▼境内、本堂・大師堂
▼クスノキ
<歴史遺産-1>
仁王門前には、2基の「經幢(きょうどう)」(国重文)が立っているが、西側は1283(弘安6)年、東側のものは1286年で、蒙古来襲時の戦いに出て倒れた兵士を供養するために建てられたと考えられる。
▼経幢(東・西)
▼経幢-東、西
源義経の愛妾静御前が讃岐へ来て長尾寺で尼になったという伝説があり、境内に静の剃髪塚(ていはつづか)が有り、長尾駅の約50m西には静が鼓(つづみ)を投げ込んだという鼓ケ渕(つづみがぶち)がある。
▼静御前剃髪塚、鼓ケ淵
<関連遺産-1>
長尾寺の南西約3kmの位置に鍛冶池が有るが、その畔に老松の木立ちに囲まれて静薬師庵が有り、源義経の愛した静御前の墓と伝える五輪塔が有る。また侍女の琴路、静の子などの墓も有る。
▼静薬師庵
▼静御前の墓
<歴史遺産-2>
長尾寺の正月の行事として三味線餅搗(しゃみせんもちつ)きが行われ、搗いた餅で作った大きな鏡餅を運ぶ競走や、餅投げなどの福奪(ふくば)いが行われる。
▼鏡餅を運ぶ競走(web引用-水彩画風変換)
▼餅投げ(web引用-水彩画風変換)
<関連遺産-2>
長尾街道(県道高松長尾大内線)へ出て清水バス停まで行くと、県道に覆い被さるように大きな木が生えている。「蛭子神社境内のムクの木」(県天然)で、樹高約20mの巨木である。
西側に清水川が流れているので、水に恵まれて成長したものと考えられる。
また、県道が付けられた時、伐採されなかったのは、神社の境内に有った事が幸いしたと云える。
▼蛭子神社境内のムクの木-1
▼蛭子神社境内のムクの木-2
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
<22.宝蔵院極楽寺)> <撮影:2016.03.23 and 2017.05.15>
宝蔵院極楽寺の草創の地は、さぬき市石田東であり、白鳳時代前期(7世紀後半)に創建されたと推定される。
回廊の礎石から四天王寺式伽藍配置とみられる。大同四年(809)火災により伽藍の一角を残して焼失したが、弘法大師が満濃池を築池し、京都へ帰る途中、弘仁十二年(821)さぬき市鴨部東山へ移転再興して真言宗秘密灌頂の道場とした。天長元年(824)四月七堂伽藍整備、淳和帝天長元年(824)勅願所となり紫雲山「宝蔵院」の号をたまわった。
醍醐帝延喜三年(903)より東讃四郡の談議所となり、法務門主となった。
九月清竜権現を勧請して境内鎮守とした。
当寺には、国の重要文化財に指定の本尊薬師如来立像や旧小倉寺本尊であった県指定の重要文化財の薬師如来のほか数多くのすぐれた仏画や仏像がある。
延元元年(1336)再度焼失したので吉祥院という末寺に移転し現在に至る。
<所在地・外観>
▼宝蔵院極楽寺-さぬき市長尾東1194
▼宝蔵院極楽寺-県下四談議所の一つ、もとは東讃の大寺院
ことでん長尾駅から南へ進み、県道10号線バイパス(さぬき東街道)に出て左(東)に1km進むと、右(南)側に「宝蔵院極楽寺」の入口が見えてくる。
<概 要><歴史遺産>
極楽寺(真言宗)は、「宝蔵院古暦記」の存在が早くから知られており、西讃の善通寺に匹敵する東讃の真言宗大寺院で有った事が解る。創建地のさぬき市寒川町石田東から出土した唐花双鸞八花鏡や鉄錫杖が現在の極楽寺に保存されている。
▼極楽寺-談議所其一の石柱、仁王門
▼極楽寺-銘板、仁王門の天井
▼極楽寺-石造の仁王像
▼極楽寺-大門の左側の塀、大門の右側の塀
▼極楽寺-西面の北側の塀、西面の南側の塀
▼極楽寺-西面の入口、西側入口から見る境内
▼極楽寺-境内、本堂
▼極楽寺-由来、本尊・薬師如来立像
▼極楽寺-讃岐三十三観音霊場第八番・紫雲山宝蔵院、三地蔵
▼極楽寺-鐘楼、清瀧大権現
▼極楽寺-桂洞法印の墓、境内
▼唐花双鸞八花鏡、鉄錫杖(web引用-水彩画風変換)
所蔵の「絹本著色両界曼茶羅図」(国重文)は、1863(文久3)年に極楽寺の澄昇法印(ちょうしようほういん)が高野山山谷上慈光院(たにがみじこういん)から譲られたもので鎌倉時代前期の作、四国では最古のものである。
▼絹本著色両界曼茶羅図-金剛界 、胎蔵界(web引用-水彩画風変換)
「木造薬師如来立像」(国重文)は平安時代末期(12世紀)の作で、極楽寺が創建地の石田東に有ったとき以来の仏像の可能性がある。ヒノキの寄木(よせぎ)造で定朝(じょうちょう)様を示している。
「木造薬師如来坐像」(県文化)はもと石田八幡神社の別当小倉寺(おぐらじ)の本尊で有ったが、明治時代初期の神仏分離で小倉寺が廃寺と成った時、本寺であった極楽寺に移された。
平安時代末期(12世紀)のヒノキの寄木造とみられる。
▼木造薬師如来立像、木造薬師如来坐像(web引用-水彩画風変換)
<関連遺産>
「小蔵寺」の銘のある1381(永徳元)年の鰐口(わにぐち)が、丸亀市本島の正覚院(しょうかくいん)に伝来している。志度の鋳物師が作ったもので、寒川郡と塩飽の関係を示すものとして興味深い。
▼正覚院(web引用-水彩画風変換)
▼正覚院-本尊仏(木造観音菩薩像)、鰐口(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀




























































