Vol.901-2/2 R巻頭-13。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:13<大窪寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.901-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:13<大窪寺>

 

20.大窪寺 <撮影:2011.11.12 and 2013.08.17 and 2017.05.22>

大窪寺は八十八番札所結願(けちがん)の寺。標高774mの女体山の麓にあり、奇岩に覆われた胎蔵ヶ峰を背景に本堂とそれに続く二重多宝塔が静かな佇まいを見せています。四国遍路の長旅を終えた遍路たちは笠や金剛杖をこの寺に納めて帰路につきます。また古くから女性の登山も許された札所で「女人高野」とも呼ばれ、大師信仰の強さが偲ばれます。                                                                                                                     (さぬき市HPより)

寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年-724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間(810-823)に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている。

その後、真済僧正が住職のころ寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、また女人の参詣を許して勧請を授けたので女人高野として栄えた。そして、天正の兵火や明治33年の大火で苦難を受けたときもあるが結願霊場として法灯を守っている。                                                                                                                   (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼大窪寺-さぬき市多和兼割96

▼大窪寺-四国遍路をしめくくる、結願の寺

 

細川家住宅から県道3号線を南に向かい、多和駐在所前交差点で左(東)に曲がり、標識に従って進むと、「大窪寺」の門前に着く。

 

<概 要>

もとは現在地より約1km北の古大窪に有ったとされるが、創建の時期は明らかではない。

現在地へ移った年代も定かではないが、長尾荘(しょう)が1347(貞和3)年、造田荘と共に京都醍醐寺三宝院によって管領(かんれい)されるようになるので、室町時代前期に山伏(やまぶし)を統括した三宝院の影響下で、山岳寺院として建てられたのではないかとも考えられる。

 

▼参道石段

 

 

女体山(にょたいざん)(774m)の偉容を背景にした立地は、山岳寺院に相応しく、寺造りに都(みやこ)の人の感性が入っているように考えられる。

 

▼聳え立つ山の岩肌、女体山の山頂

 

▼女体宮

 

▼岩場に立つakijii、岩場からの眺望は雄大

 

<歴史遺産>

現在の寺周辺から出土した瓦から、年代の特定は難しいが、中世頃のものとみられる。

現在、寺の行事として毎年春分の日と8月20日に、修験者(しゅげんしゃ)によって境内で大護摩会陽(おおごまえよう)(おたきあげ)が行われ、古くから庶民に親しまれている。

 

▼大窪寺-護摩供養-1(web引用-水彩画風変換)

 

▼大窪寺-護摩供養-2(web引用-水彩画風変換)

 

 

現在では四国八十八箇所霊場88番札所、結願の寺として参詣者が多く、門前にはみやげ物店・うどん店や旅館が並んでいる。本尊は薬師如来なので病気平癒(へいゆ)を祈る人も訪れている。

四季折々の自然の彩りも美しい。

 

▼山門

 

▼本堂、大師堂

 

▼鐘つき堂、境内

 

▼宝杖堂、弘法大師

 

 

大窪寺から女体山山頂越えの四国のみちを約700m登ると、山腹に「大窪寺奥の院」がある。

 

▼大窪寺奥の院

 

 

大窪寺の背景をなす山に、女体山ともう1つ矢筈山(やはずやま)(789m)がある。

 

▼矢筈山山頂のakijii、矢筈山を振り返る

 

 

<関連遺産>   

矢筈山から北西に派生する尾根の1つ昼寝山(455m)の頂上に、「昼寝城跡」(さぬき市前山)がある。

寒川氏の要城で、居館としての池内(いけのうち)城(同市長尾名)と対になっていた。

県道3号線の大多和バス停からマイチャリで向かった。

 

▼右側に昼寝城址案内板(判読不能)、昼寝城址(大多和橋の袂の交点)へ向かう

 

▼大多和橋の袂の昼寝城址への案内板、傾斜がきつく手押しでヘトヘト

 

▼登山口までもう少し、登山口に到着

 

▼昼寝城の説明版、登りのスタート(標高差140m、距離430m)

 

 

下の道路から15分ほど登山道を登った頂上が城跡で有るが、頂上付近は特に険しい。

平坦地は東と西の2カ所あり、明代の青磁・白磁片が出土している。眼下に長尾の平野部が見渡せる。

 

▼昼寝城址へ登る-1、中間辺りの標識

 

▼昼寝城址へ登る-2、頂部近し

 

▼頂部へ着いた、西の曲輪

 

▼東へ延びる尾根(左は登山道)

 

▼主郭跡

 

 

戦国時代には、阿波の三好氏や讃岐の十河氏らから何度も攻められているが、落城はしなかった。

現在、本丸跡と見られる西台地上に、寒川氏の祠が祀られている。

 

▼西の曲輪の祠

 

 

大内(おおち)郡における寒川氏の要城があった虎丸山(とらまるやま)(417m)は、昼寝城から見た時ちょうど寅(とら)(東北)の方角に見えるので、虎丸の名は「寅の丸」から転じたと考えられる。

 

▼寅(東北)の方向(虎丸山?)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀