Vol.891-3/3 R巻頭-03。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:03<白鳥神社・猪熊家住宅> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.891-2/3に続けてご覧ください。

 

06.猪熊家住宅 <撮影:2012.08.28 and 2016.07.05>

白鳥神社は八幡大菩薩を篤く信仰した高松藩主初代・松平頼重公が寛文年間に再興した名社であり、その後の歴代藩主たちからも手厚く遇されたことは、境内に林立する藩主寄進の石燈籠からも簡単に推察される。

この白鳥神社再興にあたって頼重公が京都から招聘したのが、当住宅の祖先・猪熊千倉であった。

猪熊家は平安時代には朝廷に神祇官として仕え、徒然草の作者として有名な兼好法師を輩出するなどした学者の家系で、隣接する白鳥神社の宮司として来讃するに際し、200石の御朱印地を幕府から賜るとともに、3000坪の敷地に40室もの部屋を備えた当住宅を整備したのである。

明治年間に白鳥神社の神官職を他家に譲り、住宅も大書院・奥座敷等を取毀し、現在では主屋と大門、長屋門が残されるのみとなったが、その規模は、それでも尚、一般の民家建築を遥かに凌駕する素晴らしいものである。長大な茅葺屋根に大きな式台玄関を正面に構え、武家住宅のように木割が細く、杉板戸を多用する格式の高い造作である。

 

<所在地・外観>

▼猪熊家住宅-東かがわ市松原166

▼猪熊家住宅-敷地3000坪の神職の屋敷

 

白鳥神社の東隣に、寄棟造の「母屋・門・長屋」からなる「猪熊家住宅」(県文化)がある。

 

<概 要>

神職として招かれた卜部兼古(うらべかねふる)(猪熊千倉)に、1664(寛文4)年に高松藩主松平頼重から与えられた屋敷で、小大名の陣屋(じんや)造の面影を残し、枯山水(かれさんすい)の庭園も備えている。

 

▼猪熊家住宅-全景、説明板

 

▼猪熊家住宅-門、長屋

 

 

<歴史遺産>

「肥前国風土記」(国宝)・「周書巻第十一断簡」(国重文)などの多くの文化財は、現在、県立ミュージアムに保管されている。因みに備前国風土記は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記である。現存する5つの風土記のうちの1つである。鎌倉時代後期に書写されたと考えられている猪熊家伝来の本は国宝の指定を受けている。また、周書は、唐の令狐徳棻らが太宗の勅命によって撰した紀伝体の断代史で、二十四史の一つである。西魏、北周両朝の歴史を記録した正史である。「北周書」(ほくしゅうじょ)、「後周書」(こうしゅうじょ)とも呼ぶ。50巻、636年(貞観10年)に完成した。

 

▼肥前国風土記(web引用-水彩画風変換)

 

 

<関連遺産>

JR讃岐白鳥駅から北東約2km(直線距離)の海岸に、「鹿浦越(かぶらごし)のランプロファイヤー岩脈」(国天然)がある。海上から見ると、白黒の幔幕を張り巡らしたように見える。

この黒い岩石がランプロファイヤー(煌斑岩)で、わが国では珍しいものである。

 

▼鹿浦越の遠景、鹿浦越へ向かう-1

 

▼鹿浦越へ向かう-2、ランプロファイヤー岩脈周辺案内図

 

▼鹿浦越へ向かう-3

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈の説明板、鹿浦越へ向かう-4

 

▼鹿浦越へ向かう-5、播磨灘の海岸(右方が白鳥の松原)

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈-1

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈-2

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈を見るakijii

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈-3

 

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈-4

▼鹿浦越ランプロファイヤー岩脈-5、鹿浦越から見る播磨灘(中央の島は女島と丸亀島)

 

▼引き返す

 

 

白鳥神社と鹿浦越ランプロファイヤー岩脈はさぬき百景に選ばれている。

 

▼さぬき百景-白鳥神社とランプロファイヤー

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀