Vol.890-2/2 R巻頭-02。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:02<森権平の墓・極楽寺跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.890-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき(き)フォトレポ-東讃編:02<森平の墓

 

03.森権平 <撮影:2016.07.01>

幼少、森権平(ごんべい)は、森志摩守一族と淡路島の城主仙石権兵衛秀久との盟約により、人質となり仙石家に預けられ育った。秀久は甚だ寵愛し、元服するに及んで仙石の姓を授け、久の一字を譲って、仙石権平久村と名乗らせた。

土佐の長曽我部元親、讃岐平定の野望のため、兵を東讃に進めしとき、虎丸城、三好の援軍として、仙石権兵衛秀久自ら兵二千余人を引きつれ、海路引田の浦に到着し引田城に入る。

直ちに森九郎左衛門村吉(権平の父)に命じ、与治山より土佐方の兵力を伺はせしところ、その兵力一萬余人という。

仙石方寡勢のため、手兵を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平を夫々の将として、引田中山周辺に伏せおき、土佐方の進攻を、奇襲を以て之を攪乱し大勝す。

土佐方騒然として、与田口まで敗走するも、数倍する兵力に次第に逆襲され、やむなく中山道に引き戻す。

仙石権平、このとき十八才なれども、大剛の上に奇才に富む若武者なれば、味方の引田城に退くを助けんとして、ふみとどまり、地の利を計りてわが兵を下知し、縦横無尽に奮戦し敵をひるます。

手兵僅かとなり自らも退かんと決意せし折、土佐方稲吉新蔵人と名乗る若武者馳せ来れば、権平、紅梅毛の馬を駆使して立向い、馬上にて太刀打し引組んで落ち重なり、互いに深手を負う。

無念なり。権平には、続く兵なく、土佐方の兵多数加勢し、遂に討死す。

鳴呼!!若武者権平の最期誠に壮烈なり。人々感服してその霊を弔う。

のち墓を築き石塔を建て今日に及ぶ、伝えて、墓に霊妙なること多く、里人に勿論のこと、遠くより詣ずる者散知れず、騎乗して通る者必ず下馬し礼拝せり。

もののふの 二度の懸()けして 権平は 陣の引田に 名のみのこしつ
その昔、詣でし人の墓に手向けたる短冊の一首なり。

 

<所在地・外観>

▼森権平墓-東かがわ市伊座字上伊座

▼森権平墓-戦国の兵乱に倒れた若武者

 

JR讃岐白鳥駅の前から国道11号線を引田方面に2Km弱行った所のバス停「権平前」の手前を右折し、西南に進みJR高徳線を渡ると讃岐街道に合流する。その讃岐街道の北面に森権平を祀る森権平庵があり、道を挟んで反対側の石段を上がると「森権平墓」がある。

 

<概 要>

▼国道11号線からの入口、森権平庵が見えてきた

 

▼森権平庵に着いた、旧道の南にある森権平の墓

 

▼石段を上がる

 

 

<歴史遺産>

羽柴秀吉は仙石秀久に、長宗我部元親が大坂に渡って来ないように牽制することを命じていた。

秀吉の命を受けた秀久は、1583(天正11)年4月21日、引田(現、東かがわ市)に上陸して元親の軍と戦ったが、秀久の配下の森権平は討死した。森権平の死を悼んで地元の人が祀ったのがこの墓(庵)である。

 

▼常夜燈、森権平の墓-1

 

▼森権平の墓-2(説明板)、森権平の墓-3

 

▼森権平の墓-4、墓から見る庵

 

 

▼石段を下る

 

 

足の神様として知られる香川県東かがわ市の森権平庵の大わらじが、地元の人達によって約半世紀ぶりに新調され、奉納された。大わらじは長さ2.6m、幅1.0mで、1足の重さは約160kgになる。

大わらじの奉納は古くから続いている行事で、森権平庵のある伊座地区の住民グループが約半月かけて完成させ、大わらじを担いでにぎやかに行列した。一行は、約20分かけて森権平庵に着き、大わらじを森権平庵の壁に取り付けて奉納した。(2013年12月8日日テレNews)

 

▼森権平庵-1

 

▼森権平庵-2

  

▼森権平庵-3、森権平の墓と庵

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

04.極楽寺跡 <撮影:2017.05.04 and 2017.05.11>

極楽寺跡は、1969(昭和44)年の圃場(ほじょう)整備で、瓦や回廊跡の礎石が発見され、古代寺院跡で有る事が確認されたが、遺跡は保存されなかった。

伽藍配置を復元すると、講堂・金堂・搭・中門が一直線に並ぶ四天王寺式で有る事が想定できる。

講堂から南大門までは150mほどになり、相当大規模な寺で有った事が解る。

出土瓦の中で特徴的なのは重弧文の軒平瓦で有る事から、時期は白鳳期と考えられる。

付近には古墳が多く、規模の大きなものも有るので、有力氏族の氏寺として建てられたのだろう。

 

<所在地・外観>

▼極楽寺跡-さぬき市寒川町石田東極楽寺

▼極楽寺跡-白鳳の寺、東讃の大寺極楽寺創建の地

 

ことでん長尾駅から県道10号線バイパス(さぬき東街道)へ出て東へ約3.8Km進み、石田高校南交差点を南に曲がる。県道264号線を500mほど行って、東に曲がり、細い道を加藤公民館まで行くと、「極楽寺跡」の石碑が立っている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼右側にザ・ビッグ寒川店、左折し東へ進む

 

▼加藤公民館、公民館の近くを探すが解らず農作業中の方に連れて来て貰った

 

▼極楽寺跡-1

▼極楽寺跡-2

 

 

▼極楽寺廃寺跡の推定復元図(十河安則画伯)(web引用-水彩画風変換)

▼極楽寺跡の出土瓦(重弧文・軒平瓦・平瓦など) (web引用-水彩画風変換)

 

明治時代に塔跡付近で、正倉院のものに似た鉄錫杖が発見され、奈良時代のものと考えられる。

また、ほぼ同じ場所から唐花双鸞八花鏡も発見され、現在は鉄錫杖と伴に長尾東の宝蔵院極楽寺に保存されている。

この八花鏡は、奈良興福寺の金堂の基壇から出土した唐花双鸞八花鏡(国宝)と同じ唐式鏡で、奈良時代のものと考えられる。

 

▼唐花双鸞八花鏡、鉄錫杖(web引用-水彩画風変換)

  

 

<関連遺産>

JR高徳線神前駅の東に約1㎞の所に石井自治会館があるが、その場所は「石井廃寺跡」で、地元では寺屋敷と呼んでいる。直径68㎝、深さ13㎝の柱穴が穿たれた礎石が残っており、四重弧文軒平瓦や八葉複弁軒丸瓦・偏向唐草文軒丸瓦なども出土しているので、白鳳期の寺跡と考えられる。

 

▼JR神前駅、駅前のマップ

 

▼石井自治館へ向かう、石井自治会館

 

▼石井廃寺跡

▼石井廃寺跡説明版、礎石

 

▼柱穴が穿たれた礎石

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀