Vol.889-2/3に続けてご覧ください。
積善坊から東方向へ進み、引田町道路元標の交点を左折して北方向へ約200m進むと、「讃州井筒屋敷」に出会う。元禄年間(1688~1704)に醤油の醸造販売を始め、関東地方まで引田醤油の名前を広めた井筒屋・佐野家の旧宅で、1913(大正2)年から酒の醸造も始め、大いに繁盛した。
2001(平成13)年からは旧引田町の所有となっている。
▼井筒屋敷-1
▼井筒屋敷-2
井筒屋敷周辺は「引田歴史町並み風の港」として、歴史的な町並みを活かした観光交流の拠点として賑わっている。旧大庄屋の日下(くさか)家、醤油業の岡田屋(かめびし屋)の豪荘な屋敷、レトロな郵便局、誉田八幡宮に至る赤い橋(御幸橋)など、引田町には見所が多い。
▼引田まち並み案内図、岡田家(かめびし醤油)
▼カフェヌーベルポスト-旧引田郵便局、松村家
▼泉家、古い町並み通りへ-1
▼古い町並み通りへ-2
▼古い町並み通りへ-3、水谷屋旅館
<02.雨滝城跡> <撮影:2012.07.10>
雨滝城(あまたきじょう)主、安富氏は足利氏の随身となり、播州三ヶ月郷を領有していたが、応永(1368~75)の頃、細川頼之に従って讃岐に入り三木郡平木の城主となった。長禄年間(1457~59)山城守盛長のとき、寒川氏より寒川郡の一部を分割され、雨滝城を築いて本城とした。
天正六年(1578)阿讃の国境を越えて讃岐侵略を狙っていた長宗我部元親が、同11年引田城を落し入れると雨滝城の攻略にかかった。城を守っていた六車宗旦も大軍の前に抗しきれず、五月に落城した。
雨滝城跡は、大川町の北方に聳える標高253mの雨滝山の山頂にあり、瀬戸内海を見渡せる好位置にある。
城の遺構は、昭和44年・57年調査した結果、本丸跡を中心に三方へ派生する尾根上に形成された各郭から建物群が確認された。この調査の結果、本丸跡をはじめ各郭からは建物礎石や生活用品・武具などを検出した。
出土物では、鉄製品、銅製品、中国の(主に北宋銭)の銭貨、貝殻、石製品、土器類、陶器、瓦破片、焼けた壁土等が多数あった。また、各郭の連絡路としての「犬走り」も発見できた。
この城は、天然の地形を上手く取り入れ、並置された典型的な連郭式中世山城で有る事が確認できた。
<所在地・外観>
▼雨滝山(雨滝城跡)-さぬき市津田町津田・大川町富田中・寒川町神前
▼雨滝城跡-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)
▼雨滝城跡-典型的な連郭式中世の山城
JR讃岐津田駅から国道11号線に出て新町交差点を右折し、1つ目の津田町神野交差点を右折し、県道133号線を南方向へ進み、柴谷トンネルを抜けて直ぐ右折し、森林浴公園口を通って細い道を北西に上る。(JR讃岐津田駅~森林浴公園口=約2Km)
▼雨滝山の全景
▼森林浴公園口、雨滝森林浴公園案内板
<概 要>
三差路を左に曲がると角に、「さぬき市雨滝自然科学館」がある。
▼導入路、雨滝自然科学館
この雨滝科学館にはナウマンゾウの化石などの展示が有る。
▼雨滝科学館の看板、科学館展望台から見る雨滝山
▼雨滝科学館展望台から南方の展望、長い遊歩道
雨滝科学館の前を北西方向に、約1km行くと左に東屋が有り、右側に「雨滝城跡」の標識がある。
▼雨滝山の標識、雨滝城跡の標識
雨滝山の山頂(253m)へは階段を10m登り、あとは山麓の斜面を上って行く。
<歴史遺産>
雨滝山の山頂の本丸跡は平坦で、新高松空港が出来るまでは、航空灯台が設けられていた。
▼登山道へ階段を登るakijii、登山道-1
▼登山道-2
▼山頂間近、雨滝城跡
▼山頂標示と祠と三等三角点
▼竜王神社の祠とakijii、雨滝城跡の説明板
遺構としては、山頂から3方に延びる東西600mの尾根上に、北方5段、東方2段、西方2段の削平地が設けられ、曲輪(くるわ)としている。建物礎石・土塁・堀切・土橋・切岸・枡形(虎口)・櫓台・武者走りが認められ、厳重な備えで有った事が窺える。全体的配置の縄張りは細川系とされるが、枡形は勝賀城や京都嵐山城と同じ類型で、天正年間(1573~1592)のものと研究結果が出されている。
(1970年・1982年の発掘と2001年の踏査によって全貌が明らかになった)
▼津田湾と鵜部の鼻、遠くの絹島・丸亀島・女島
遺物としての出土物は、みろく公園にある「さぬき市歴史民俗資料館」で見る事が出来る。
1582(天正10)年5月、安富盛方(もりかた)のとき、長宗我部元親の東讃岐侵攻によって雨滝城は落城し、盛方は小豆島を経て播州(現、兵庫県)の黒田官兵衛に従ったと言われている。
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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