Vol.828-2/3に続けてご覧ください。
▼絵馬堂へ進む、絵馬堂-1
▼絵馬堂-2
▼下拝殿-2、上拝殿・本殿と境内末社
▼境内末社(高良社・御先社・廣瀬龍田社・北口霊社)-1、境内末社(神明社・若宮社)
▼上拝殿・本殿、境内末社(高良社・御先社・廣瀬龍田社・北口霊社)-2
▼絵馬堂-3、神馬
▼延齢坂
▼境内-1
▼境内-2
▼境内-3
▼神輿舎、下拝殿から下る-1
▼下拝殿から下る-2、随神門を潜り出る
文化財の案内
石清尾八幡宮の文化財の紹介です。(石清尾八幡宮HP引用)
・細川清氏征矢 (ほそかわきようじそや)
貞治2年(1363年)正月、細川頼之は石清尾八幡宮参拝の後、兵四万人と共に伊予の河野通盛を攻め、同年4月戦勝のおり、石清尾八幡宮の神恩に感謝し4月3日お祭りを開いた。
これが「右馬頭市」と呼ばれ、現在の5月3日の「市立祭」である。
写真の「矢」はこれをさかのぼり、頼之が四国の覇権を細川清氏と争い、これを撃ち破った訳であるが、その細川清氏の「矢」を松平家が当宮に奉納したものである。
右が「雁股(かりまた)」左が「龍舌形(りゅうぜつがた)」と思われる。
・細川家制札 (ほそかわけせいさつ)
右於山河従此境致干東之境不可有山河狩事若於此妨者可罪科申行也仍制札状如件。
応安四年(1371年)八月 境内で狩などの殺生を禁じた制札。
<細川清氏征矢> <細川家制札>
・還城楽面 (げんじょうらくめん) 附 散楽面 (さんがくめん)
文明12年(1480年)作製 奉納者は不明だが、当時から八幡宮で雅楽が盛んだったことを思わせる。
・花形馬面 (はながたばめん)
細川頼之奉納 馬の額などを覆う馬具で、全体が花びらの形状に似ているので「花形」と言う。
祭礼に使われたと思われる。
<還城楽面 附 散楽面> <花形馬面>
・木鐙 (きあぶみ)
細川頼之奉納
・螺鈿鞍前後橋 (らでんくらぜんごのはし)
細川頼之奉納。螺鈿がほどこされた前輪、後輪と居木が納められている。
<木鐙> <螺鈿鞍前後橋>
・喜岡城瓦 (きおかじょうかわら)(古高松城遺瓦)
喜岡寺地中から出土した長禄三年(1459年)造の遺瓦。古高松城の瓦と伝わる。
古高松と新高松の縁から、喜岡寺より当宮へ奉納された。
・古管 (こかん) 篳篥 (ひちりき)
雅楽器篳篥とそれを納める玉楮象谷(たまかじぞうこく)作の扇面(せんめん)管箱。
玉楮象谷は讃岐漆器の第一人者であり、数多くの作品を残した偉大な漆芸家である。
<喜岡城瓦> <古管篳篥>
・石清尾八幡宮祭礼図巻 (さいれいずかん)
江戸時代末期 松平頼該筆 松平家歴史資料
高松松平家10代藩主頼胤(よりたね)の兄、松平頼該(よりかね)筆。
上巻は城下の各町から出されたお船や趣向を凝らしたつくり物を載せた囃小屋台などが描かれ、
下巻は鳥毛や挟箱などの奴行列やオサキラサン(頭人・とうにん)、神輿などを描く。
当宮所蔵の図巻は、松平家より借り受け、描き写したものである。
<一枚目>
<二枚目> <三枚目>
<四枚目> <五枚目>
<帰路メモ>
▼石橋を渡り八幡通りへ進む、帰路のバス停「八幡前」へ向かう(約0.1km)
▼八幡通りを東に進み宮脇町1丁目交差点を右(南)折、県道172号線を南に進む
▼まちなかループバス停「八幡前」で乗車、バスの車内
▼高松駅バスターミナルで降車、JR高松駅⑧番のりばへ進む
▼JR四国高松駅舎の北側に高松駅ビル建設中
▼北西側は徳島文理大香川キャンパス建設中、JR高松駅から帰宅の途に就いた
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀