Vol.814-2/6に続けてご覧ください。
▼佐藤継信の墓・太夫黒の墓に着いた、佐藤継信の墓・太夫黒の墓-1
▼佐藤継信の墓・太夫黒の墓-2
▼佐藤継信の墓・太夫黒の墓-3
▼佐藤継信の墓・太夫黒の墓-4
<Point-4<総門(そうもん)跡>探訪メモ・ルポ>
平氏は内裏ができるまで牟礼の六万寺を天皇の行在所とした。
この時ここに門を構えて海浜の防御に備えるとともに、海より上陸するときの拠点とした場所である。
▼「point4-総門跡」へ向かう(約0.3Km)、牟礼町王墓交差点を直進(北方向)横断
▼牟礼町牟礼を北方向に進む-1(牟礼川を渡り琴電志度線を渡る)、次の三差交点を右折
▼牟礼町牟礼を東北方向に進む
▼総門跡が見えて来た、総門跡の南角の源平合戦史跡石標
▼総門跡に着いた、総門跡-1
▼総門跡-2
<Point-5<射落畠(いおちばた)>探訪メモ・ルポ>
佐藤継信が能登守教経に射落とされた所である。昭和6年に30世孫の佐藤信古氏がこの地に碑を建て た。
▼Point5-射落畠」へ向かう(約0.1Km)、牟礼町牟礼を東北に進む
▼射落畠に着いた、射落畠-1
▼射落畠-2
▼射落畠-3、「Point6-義経弓流し跡」に向かう(約0.4Km)
<Point-6<義経弓流し跡>探訪メモ・ルポ>
源義経は勝ちに乗じて海中まで駒を進めて戦っていたが、脇下にはさめていた弓を海中 に落としてしまい平家方に熊手をかけられ海中に落ちかかりながらも弓をかき寄せ引き上げた。
危険な目に遭ってまでなぜ、と源氏の軍兵に言われると、平家方に弓を拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな に弱い弓を使っているのか」と物笑いになるのをおそれたと言われている。
▼県道36号線を北に進む-1、牟礼町牟礼交差点を直進横断
▼牟礼町牟礼交差点の右(東北-県道146号線)方向、県道36号線を北に進む-2
▼県道36号線脇に「👈義経弓流し跡」石標、義経弓流し跡へ進む-1
▼義経弓流し跡へ進む-2、義経弓流し跡に着いた
▼義経弓流し跡
<Point-7<洲崎寺(すざきじ)>探訪メモ・ルポ>
眺海山円通院と号し、高野山真言宗の寺である。源平合戦の兵火にあい、義経は寺院の焼失を悔い、再びこの地に寺を建立するも後、中世におとろえた。元禄12年に再興した。
佐藤継信の死の時、この寺の扉に乗せて運んだとの伝えがあり、継信ゆかりの武具などが残されている。
▼「Point7-洲崎寺」へ向かう(約0.1Km)、洲崎寺が見えて来た
▼洲崎寺の南西角に着いた、洲崎寺-1
▼洲崎寺-2
▼洲崎寺-3
▼洲崎寺-4
▼洲崎寺-5
▼洲崎寺-6
▼洲崎寺-7
▼洲崎寺-8
▼洲崎寺-9
▼洲崎寺-10
▼洲崎寺-11
▼洲崎寺-12
▼洲崎寺-13
引き続き、Vol.814-4/6をご覧ください。

































































