Vol.579-4/5 これが成功の秘訣<史跡探訪-県都高松市編10: 高松市新田・東山崎町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.579-3/5に続けてご覧ください。

 

▼久米池南岸沿いに西へ進む-2 久米石清尾八幡宮へ寄る

久米石清尾八幡神社は、久米池の南岸に鎮座しており、池沿いに参道を行くと正面に社殿、右手に神明殿と称する結婚式場が見えてくる。

 

▼久米石清尾八幡宮-1

當神社は天平十一年八月十五日、舊山田郡本山郷の一郷一社の氏神にして九州宇佐八幡宮より別御霊を御勧請申上げ時の栄枯盛衰の変轉ありたりと雖も、御神體は當時よりそのまま奉安申上げ現在に至ってゐる。貞観元年本山を以って石清水八幡宮神供料とせられ、東鑑嘉禎二年七月二十五日の下文に、石清水領讃岐國本山庄被止足木工助遠親知行地頭職一圓被下宮寺とある。弘仁元年僧空海この地に来り久米寺方丈山宿坊に泊まりその夜瑞光空海に示現す。依って翌日自ら光源を尋ねしに、八幡宮の祠あり畏み親しく参拝なし、神恩を謝したりとある。當地は古代天津久米命の裔の永住地により、地名を久米と稱し、久米宮、久米八幡宮、久米石清水八幡宮と奉稱申上げてきた。全讃史に、天文末久米六兵衛者潜居此山常信八幡神募里人立祠以此縁故曰久米山久米寺主之と見ゆ。永正年中長我部軍の兵火に罹り、同郷久米の地に祠を建て奉遷す。元和六年九月社司高倉氏修造。

更に寛文四年修造す。元禄六年社殿を舊久米のこの地に復し、四月八日高松石清尾八幡宮神主藤原成圀をして御遷宮の儀を行ふ。明治五年石清水神社と改稱、同年七月三十日村社に列せられ、明治四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

大正十四年十月社殿炎上同十五年十月新社殿落成し御遷宮の儀を行ふ。
境内由緒書より。(石碑より)

 

▼久米石清尾八幡宮-2

▼久米石清尾八幡宮-3

 

▼久米石清尾八幡宮-4

 

▼久米石清尾八幡宮-5

 

▼久米石清尾八幡宮-6 隣接する久米寺に寄る

 

▼久米寺

 

▼北方向に屋島と五剣山、久米石清尾八幡宮を後にして茶臼山古墳へ進む-1

 

▼久米石清尾八幡宮を後にして茶臼山古墳へ進む-2

 

▼久米石清尾八幡宮の御旅所前を右折、一心院に向かって進む-1

▼一心院に向かって進む-2

 

▼次の三叉路を左折、一心院の登り口に着いた

 

 

<探訪史跡-3:高松市茶臼山古墳>

高松市東山崎町・前田西町・新田町にまたがり、後円部の中心が三町の境界線があるので、山の名前から高松市茶臼山古墳と呼んでいる。この古墳は、今から1600年ほど前、古墳時代前期に造られた豪族の墳基である。形の上から前方後円墳とも呼ばれる。此処にある二つの竪穴式石室が埋葬する施設で、後円部から北東方向に墳丘が延びており、これが前方部である。古墳の全長は66m、後円部直径25m、前方部端幅11mで、丘陵を利している。後円部は、自然地形上に2.4mの盛土をしている。

この古墳は、昭和4588日に香川県指定史跡に指定されている。

 

竪穴式石室-1主体部()、第2主体部()
1主体部() この石室は長さ10m、幅6.2m、深さ1.1m傾斜角度約50度の度壙の中に築かれています。
石室は、安山岩の板石を小口積みし、裏ごめとして多くの石と土砂が詰められています。

床面には、粘土が敷き詰められ。その上に木棺に入れた遺体が安置されたものと思われます。石室の規模は、長さ5.45m、深さ1.35m、幅は西方で0.7m、東方で1.1mと東方が広くなっています。天井の蓋石には9個の石が用いられていますが、中には重さ2.5トンもあると思われるような巨石が見られます。遺体は石室の内部に頭を中央に向かい合わせて2体分があり、その中央部に朱に染まって鍬形石が2個出土しています。その他ガラス製の小玉、硬玉製の管玉、勾玉などの装身具とか、鉄器では剣5口、太刀1振、鉄鏃4口、銅鏡1(平縁画文帯重列神獣鏡)、土師器2点なども発見されています。  

 (現地案内板より)

 

▼一心院-1

 

▼一心院-2、茶臼山古墳へ進む-1

 

▼茶臼山古墳へ進む-2

 

▼茶臼山古墳へ進む-3、高松市朝日町の方向

 

▼茶臼山古墳へ進む-4

 

▼茶臼山古墳へ進む-5

 

▼茶臼山古墳-全景、説明板-1

 

 

引き続き、Vol.579-5/5をご覧ください。