Vol.579-2/5に続けてご覧ください。
▼久本神社の石段を上がる-2
▼久本神社の鳥居が見えた、久本神社-1
久本神社は、久米池の北東、宝池の南に鎮座する。鳥居には「天満宮」、境内の由緒碑は「久本神社」である。
由緒(香川県神社誌)川添村村社 石清水神社境外末社
久本天神、久本天満宮と稱せられ應和年中の創立にして、當地に讃岐守紀夏井の孫久本なる人あり、菅公の殊遇を蒙りしを以て、應和年中その子久寛祠を立てて奉祀すと云ふ。安永7年當社再建の棟札に「傳云當社天満宮者昔正暦年中此處在久本氏某勧請所也 叉云仁和年中於當国一郷建一社而祭之然某來久」と記せり。世々久本氏の崇敬する所にして、貞治年中再建あり。安永七年及び文化十四年の棟札(久本儀太郎蔵)ありて皆久本氏の再建する所なり。久本氏の裔分かれて高松市及び円座村にある者、昭和五年當所氏子と協力して本殿、幣殿を建築せり。(三代物語)
▼久本神社-2
▼久本神社-3
▼久本神社-4
▼久本神社を後にして久本古墳へ向かう、石段を下りる-1
▼石段を下りる-2
▼小道を進む
▼天照皇大明神宮へ寄る、天照皇大明神宮-1
天照皇大神宮は久本神社の南西、宝池の南に鎮座する。境内に入ると鳥居と社殿、その横に記念碑がある。
記念碑には、「当久本神社は、応和年中紀夏井の子孫久実が菅公の恩遇に感じ此の地に菅廟を建立以来千有余年の歴史を以ち天神さんとしてお伊勢さんと共に境内に松の大木が生茂り神社の森厳さを長年以ち続けて来たが最近松食虫に食枯され神社の荘厳さを失い当氏子相集り協議の上菅公の愛された梅を植樹して境内を梅園とし、叉お伊勢さんには桜を植え明るい憩いの庭園を立案し昭和五十五年秋お伊勢さんより着工。昭和六十年春梅の木を氏子持ち寄りて植樹し梅苑とせり。昭和六十年春吉日」とある。
香川県神社誌でこの地区の神社を探すと、由緒の内容や場所から推察するに山端神社だと思う。
山端神社由緒(香川県神社誌)
川添村村社 石清水神社境外末社。三代物語に「天照皇太神宮在新田」とあり。一に伊勢神社と稱へらる。
▼天照皇大明神宮-2
▼天照皇大明神宮-3
▼天照皇大明神宮-4、久本古墳へ進む-1
▼久本古墳へ進む-2
▼久本古墳へ進む-3
▼久本古墳へ進む-4
▼久本古墳へ進む-5、久本古墳に着いた
<探訪史跡-2:久本古墳>
高松市の東部地区新田町久本にある横穴式石室を持つ円墳で、昭和50年3月13日高松市指定史跡に指定されている。久本古墳の石室は全長10.8m、玄室は長さ4.5m高さ2.1mで巨大な横穴式石室をもつ巨石古墳である。周辺に大きな勢力と高度な文化をもった集団が存在したといえよう。玄室奥に、県内唯一石棚が見られる。
棚の下には、遺体を安置する陶棺が置かれていた。石棚は和歌山県・徳島県の古墳に多くみられ、広範囲にわたる文化交流がうかがえる。仏教文化の影響が色濃い承台付銅椀が県下で初めて出土している。須恵器が多量に副葬されており、古墳が六世紀末に築造され、七世紀初頭まで、追葬が行われていたことが判明した。久本古墳には、「祭礼などの時塚が膳・埦を貸してくれていたが、村人が壊すなどの不始末を起こし返さなかった後は、塚はもはや膳・埦を貸してくれなかった」という“埦貸しの伝説”が伝えられている。(現地説明板より)
▼全景、説明板
▼巨石の開口部と羨道、羨道
▼羨道の壁と天井
▼玄室、玄室の棚
▼玄室の壁と棚
▼玄室の壁と棚と天井
▼玄室の壁と天井
▼玄室から開口部を見る
<歩行メモ>
▼久本古墳を後にして高松市茶臼山古墳へ向かう、右(北)奥に屋島
▼県道30号線交点を左折、県道30号線を南下-1
▼県道30号線を南下-2 、右(西)側に久米池
▼県道30号線を南下-3 、反射鏡にマーキング
▼県道30号線を南下-4(次の信号交点を右折) 、久米池南岸沿いに西へ進む-1
▼久米池-北西奥に女木島、北奥に屋島と北東に五剣山
引き続き、Vol.579-4/5をご覧ください。



























































