Vol.568-3/6 私たち自身が道を広める。<史跡探訪-西讃編06:観音寺市豊浜・大野原町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.568-2/6に続けてご覧ください。

 

<リャリ走行メモ>

▼国祐寺へ向かう-1

 

▼国祐寺へ向かう-2、国祐寺が見えてきた

 

▼右は台山(五十鈴神社が鎮座)、国祐寺は五十鈴神社と同じ台山の左の裾野に位置する

▼国祐寺の全景、国祐寺へ向かう-3

 

 

<探訪史跡-2:国祐寺>

国祐寺は法華宗(本門流)の寺院である。

天正元年(1573)、土佐中村普門寺が長宗我部氏により焼かれた際、普門寺の僧・月海が大平国祐(くにすけ)を慕い頼り、観音菩薩像を背負い、姫郷を目指す。国祐は天正34月に大悲谷聖観世音菩薩堂を建立した。天正5年、尊母と共に上洛した帰途、高松槌之戸で遭難の危機に遭う。鵜之足浦に着岸した事により国祐はこれ以後法華経を厚く信仰すると伝わっている。天正63月に真言宗の光明山毘盧遮那寺を廃寺とし、5月には法華宗雲風山国祐寺を建立する。10月には日現を境妙国寺より迎えている。天正7年、番神宮を建立した。天正87月、大悲谷観世音縁起が完成する。天正9年、国祐寺にて日蓮像入佛供養を行う。天正10年雲風山国祐寺縁起が完成。国祐死後の宝暦12(1762)513日、国祐寺十五世・日豊が雲風山国祐寺縁起の写しを作成している。 (雲風山国祐寺略縁起)

 

▼国祐寺は間近、国祐寺の寺標

 

▼国祐寺の本堂の屋根瓦、国祐寺-1

 

▼国祐寺-2

 

▼国祐寺-3

 

▼国祐寺-4

 

▼国祐寺-5

 

▼国祐寺-6

▼国祐寺-7

 

 

<リャリ走行メモ>

▼国祐寺を後にして獅子ケ鼻城跡へ向かう(0.5km)、院内地区を東に進む-1

 

▼院内地区を東に進む-2、院内集落センターを通過

 

▼台山尾根の東端が見えた、台山尾根の東端に着いた

 

 

<探訪史跡-3:獅子ケ鼻城(ししのはなじょう)

山城で築城者は大平伊賀守国祐である。城主:大平氏の祖先は奥州・藤原秀郷の五男・千常とされ、千常の子・文脩の時、近藤氏を名乗り、その子孫・国平が讃岐に領土を与えられたようだ。

その子・国盛の時大平氏を名乗り以後、細川氏に仕え勢力を伸ばしたようだ。大平国祐は土佐・吾川郡の城主であったが、長宗我部氏に攻められ、雨霧城主の香川氏を頼って讃岐に落ち延びてきたという説もあるようだ。和田村・獅子の城を築いた国祐であるが、天正6(1578)長宗我部の大軍に攻められ落城し、自身は城を脱出し姿を消した。後に讃岐領主・仙石秀久に仕え侍大将として島津征伐に参戦、戸次川の戦で敗走して後、讃岐に戻りかつての家臣の元で生涯を送ったらしい。

 

▼獅子ケ鼻城木戸口-1

 

▼獅子ケ鼻城木戸口-2、獅子ケ鼻城木戸口の石柱と祠

▼登りに挑戦したが直ぐに諦め戻った、獅子鼻城址の石碑の場所へ進む(0.1km)

 

▼獅子鼻城址の石碑のある場所に着いた、獅子鼻城址の石碑のある場所

 

▼獅子鼻城址の石碑、須恵器出土地の石柱

▼ここからも登りにチャレンジ、敢え無く断念

 

▼院内貝塚の探索へ向かう(0.5km) こちらではない様だ

 

▼引き替えし姥ケ懐池の方へ行く、院内橋(吉田川)を渡り右折

 

 

<リャリ走行メモ>

▼史跡の散策コース(院内貝塚)の標示板を発見、標示板の方向へ進む(反射鏡にマーギング)

 

▼台山の東端と下を流れる吉田川を振り返る、姥ケ懐池へ進む

 

 

引き続き、Vol.568-4/6をご覧ください。