Vol.563-4/4 わが道を貫くもの。<史跡探訪-西讃編01:三豊市三野町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.563-3/4に続けてご覧ください。

 

<歩きメモ>

▼県道220号線を東北へ進む-1

 

▼県道220号線を東北へ進む-2、三野町公民館吉津分館に着いた

 

▼三野町公民館吉津分館

 

▼三野町公民館吉津分館-吉津小学校跡碑

 

 

<探訪史跡-3:西行法師の歌碑>

「讃岐の風土記 by 出来屋」によると、旧吉津小学校校庭西行上人歌碑には、西行は讃岐の三野津に立ち寄ったと伝えられています。三野津は現在の三豊市三野町吉津とされ、昭和31(1956)旧吉津小学校校庭に、「志きわたす月乃氷をうたかひて ひびのてまはる味のむら鳥」と刻まれた歌碑が建立されました。その後、吉津小学校は移転され、歌碑のある場所は、現在町の老人福祉センターの前庭になっています。「山家集」に、「さぬきの国にまかりてみのつと申す津につきて、月の明かくて、ひびの手も通はぬほどに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて跳び渡りけるを敷き渡す月の氷を疑ひてひびの手まはる味鴨の群鳥」と載せられています。この中で「みのつ」とは三野津のことで、当時三野津は広い入江の良港でした。西行が崇徳上皇の白峰参拝と空海の善通寺詣でをかねて讃岐に渡ってきた時の上陸地はこの三野津であったともいわれています。「ひび」とは、魚をとるため、または海苔の養殖のため海中に立てる粗(えだ)のことです。川田順はこの歌を、「海上の月光を氷が敷いたのかと疑い恐れて、その方までは飛びゆかず、海(えだ)のあたりを翔け廻っている水禽らよ」と解釈しています。 また、富士正晴は、「すうっと敷きつめている月の光を氷と錯覚してひびの手(ひびわれの手という意味も匂わせている)をよけて通る味鴨の群れよ」と解釈しています。

なお、「讃岐名所歌集」には異説が述べられている。             (web西行庵より)

 

▼西行法師歌碑-1

 

▼西行法師歌碑-2

 

<歩きメモ>

JRみの駅へ向かう、県道220号線を東へ進む-1

 

▼県道220号線を東へ進む-2

 

▼県道220号線を東へ進む-3、左(北西)に汐木山

汐木山の麓は大干潟で三野津湾に百石船が出入りした港があった。1660年頃京極藩によって潮止堤が築かれ水門の外側に港を作った。当時の燈台が荒魂(あらたま)神社に残っている。

汐木港は三野郡の荷物の集積地で昭和12年頃までは港町として栄えていた。現在は、干潟(ひがた)は埋め立てで見ることが出来ない。

▼県道220号線を東へ進む-4

 

▼県道23号線が見えてきた、県道23号線を東へ直進横断

 

▼県道220号線を東へ進む-5

 

▼県道220号線を東へ進む-6、中之坊前を通過

 

▼県道220号線を東へ進む-7、三野橋(高瀬川)が見えてきた

 

▼香川近代美術館前を通過、県道220号線を東へ進む-8

 

▼三野橋を東へ渡る、県道220号線を北へ進む

 

 

<探訪史跡-4:本門寺>

高永山本門寺(こうえいざん ほんもんじ)は、日蓮正宗の本山格寺院である。法華宗系各派では本門寺という寺院名が多数あり、それぞれ区別するために頭に所在地の讃岐をつけた、讃岐本門寺(さぬきほんもんじ)とも呼ばれている。また、地元の人からは、大坊さん(だいぼうさん)と呼ばれている。

 

▼県道220号線を左折し本門寺の境内へ、西門への参道入口

 

▼法善坊、泉要坊

 

▼奥之坊、西門

▼大坊、客殿

 

▼妙鍾庵、境内

 

▼開山堂、案内図

 

▼位牌堂、本堂-1

 

▼本堂-2 香川県保存木「大楠」

▼山門、縁起

 

 

<歩きメモ>

JRみの駅は近い-1

 

JRみの駅は近い-2JRみの駅に着いた

 

JRみの駅の開業・改名の掲示板、JRみの駅から帰宅の途に就いた

 

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀