Vol.553-3/5に続けてご覧ください。
<探訪史跡-3:法勲寺>
現在の真宗興正派の法勲寺で、この付近は古代寺院の講堂付近と推定されている。
「法勲寺村史」によると、石の塔は鎌倉時代頃のものらしい。
豊島石で、五層を残しているが、七層か九層だったらしい。
▼全景
▼寺標と本堂、薬師堂
▼礎石群、法勲寺跡石塔の碑と地蔵堂
▼法勲寺から見る高見峰・猫山・城山、法勲寺跡と讃留霊王神社の杜
<リャリ走行メモ>
▼法勲寺跡と讃留霊王神社の杜へ向かう:突当りを左折、右(北)方向に飯野山
▼小道を南下、杜が見えてきた
<探訪史跡-4:法勲寺跡>
白鳳期の法勲寺跡で、神社の北側に礎石などが並べられている。
法勲寺は武殻王(たけかいこおう)=讃留霊王の子孫を名乗る綾氏が建立したといわれている。
▼法勲寺跡へ入る、法勲寺跡の説明板
▼全景、讃留霊王神社御旅所由緒之碑
▼礎石保存の記と礎石、礎石保存の記
▼礎石群、五重塔の心礎石-1
▼五重塔の心礎石-2
▼讃留霊王神社御旅所
<探訪史跡-5:讃留霊王神社>
讃留霊王は讃岐の悪魚退治伝説で有名で、人間を船ごと襲って食べたと云いますから、なかなかの怪魚だ。讃留霊王は、西讃では景行天皇の子である日本武尊命のそのまた子ども、武殻王(たけかいこおう)のことだとされているが、東讃では日本武尊の兄弟・神櫛王である。讃留霊王と88人の兵士は怪物に呑まれますが、悪魚のお腹の中で船が燃え、苦しむ怪魚の腹を裂いて外へ出ました。悪魚の毒でみんな死にかけますが、八十場の清水で助かる。怪魚退治の現場は坂出市で、いわれのある地名などが残っている。讃留霊王神社は径20mの円墳の上に建てられている。
▼法勲寺跡から讃留霊王神社に北から入る、鳥居
▼両側に石灯籠、北から見る境内
讃留霊王神社北参道で、秋祭りに御神輿がお旅所に向かうまでの渡御道である。
▼御由緒碑、矢塚伝説
讃留霊王が城山から放った矢がささったという矢塚。
▼讃王大明神・王妃霊地、説明板
▼社殿、東からの寺標と鳥居
▼拝殿、拝殿内の絵画
▼本殿、本殿:裏面扉
▼本殿裏の前方後円墳
本殿裏の前方後円墳 讃留霊王が眠っているとされている。
▼社殿-1
▼社殿-2、拝殿内の絵画の構図で一枚
<リャリ走行メモ>
▼大窪池へ向かう、小道を南下-1
▼小道を南下-2
▼小道を南下-3、高見峰・猫山・城山が大きくなってきた
▼大窪池の堤体が見えてきた、堤体の手前を左折
▼大窪池の堤体に沿って東進
引き続き、Vol.553-5/5をご覧ください。