Vol.553-4/5 練習常全。<史跡探訪-中讃編09:丸亀市飯山町法軍寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.553-3/5に続けてご覧ください。

 

<探訪史跡-3:法勲寺>

現在の真宗興正派の法勲寺で、この付近は古代寺院の講堂付近と推定されている。

「法勲寺村史」によると、石の塔は鎌倉時代頃のものらしい。

豊島石で、五層を残しているが、七層か九層だったらしい。

 

▼全景

 

▼寺標と本堂、薬師堂

 

▼礎石群、法勲寺跡石塔の碑と地蔵堂

 

▼法勲寺から見る高見峰・猫山・城山、法勲寺跡と讃留霊王神社の杜

 

 

<リャリ走行メモ>

▼法勲寺跡と讃留霊王神社の杜へ向かう:突当りを左折、右()方向に飯野山

 

▼小道を南下、杜が見えてきた

 

 

<探訪史跡-4:法勲寺跡>

白鳳期の法勲寺跡で、神社の北側に礎石などが並べられている。

法勲寺は武殻王(たけかいこおう)­=讃留霊王の子孫を名乗る綾氏が建立したといわれている。

 

▼法勲寺跡へ入る、法勲寺跡の説明板                     

 

▼全景、讃留霊王神社御旅所由緒之碑

 

▼礎石保存の記と礎石、礎石保存の記

 

▼礎石群、五重塔の心礎石-1

 

▼五重塔の心礎石-2

 

▼讃留霊王神社御旅所

 

 

<探訪史跡-5:讃留霊王神社>

讃留霊王は讃岐の悪魚退治伝説で有名で、人間を船ごと襲って食べたと云いますから、なかなかの怪魚だ。讃留霊王は、西讃では景行天皇の子である日本武尊命のそのまた子ども、武殻王(たけかいこおう)のことだとされているが、東讃では日本武尊の兄弟・神櫛王である。讃留霊王と88人の兵士は怪物に呑まれますが、悪魚のお腹の中で船が燃え、苦しむ怪魚の腹を裂いて外へ出ました。悪魚の毒でみんな死にかけますが、八十場の清水で助かる。怪魚退治の現場は坂出市で、いわれのある地名などが残っている。讃留霊王神社は径20mの円墳の上に建てられている。

 

▼法勲寺跡から讃留霊王神社に北から入る、鳥居

 

▼両側に石灯籠、北から見る境内

讃留霊王神社北参道で、秋祭りに御神輿がお旅所に向かうまでの渡御道である。

 

▼御由緒碑、矢塚伝説

讃留霊王が城山から放った矢がささったという矢塚。

 

▼讃王大明神・王妃霊地、説明板

 

▼社殿、東からの寺標と鳥居

 

▼拝殿、拝殿内の絵画

 

▼本殿、本殿:裏面扉

 

▼本殿裏の前方後円墳

本殿裏の前方後円墳 讃留霊王が眠っているとされている。

 

▼社殿-1

 

▼社殿-2、拝殿内の絵画の構図で一枚

 

<リャリ走行メモ>

▼大窪池へ向かう、小道を南下-1

 

▼小道を南下-2

 

▼小道を南下-3、高見峰・猫山・城山が大きくなってきた

 

▼大窪池の堤体が見えてきた、堤体の手前を左折

 

▼大窪池の堤体に沿って東進

 

 

引き続き、Vol.553-5/5をご覧ください。