Vol.553-3/5 練習常全。<史跡探訪-中讃編09:丸亀市飯山町法軍寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.553-2/5に続けてご覧ください。

 

<リャリ走行メモ>

▼島田寺へ向かう-1、国道438号線を北上:飯野山が顔を出す

 

▼国道438号線を北上-8、バス停:切池

 

▼飯野山が正面、飯山町上法軍寺交点

 

▼丸亀市消防南署、島田交点

 

▼飯山高校へ寄る-1

 

▼飯山高校へ寄る-2、飯山高校に着いた

 

▼飯山高校

 

▼島田寺へ向かう-2

 

▼島田寺へ向かう-3

 

▼島田寺が見えた、島田寺:白塀

 

 

<探訪史跡-2:島田寺>

開基未詳、元を法相宗と旧記に見える。八葉山・真言院・浄土寺と称した。のち、所の名をよんで島田寺という。「延暦十三年(794)正月八日、空海(弘法大師)、法勲寺を玉井村讃留霊王塚上にうつし、島田寺を瑜伽場として滞り讃留霊王を追薦す。」とあり。のち、法勲寺廃頽の時、本尊、霊宝を当寺に納め、讃留王の神霊を勤修す。故に世人綾氏の氏寺となす。「当寺に過去帳存する事久し、当国の及第さし人及び諸士家系の分明ならざるは、この過去帳をもって礼正す。」(この故に今も古き事をよく知りたるを島田寺の過去帳という)

天正年中の兵乱の堂宇、財宝、並びに一切経、讃州風土記、国中の古記録、過去帳、綾氏系譜等を焼失す。慶長八年生駒一正公当寺十五世良純上人に帰依し、当寺寺領五十石を付けて、弘憲寺を建立す。時に法勲寺伝来の仏像(不動明王、地蔵菩薩、毘沙門天等)仏具等も遷し、良純を弘憲寺の開基となす。以後、当時は弘憲寺の隠居寺となる。尚、歴代のうち、十五世良純は「般若八講の大導師」として仰がれ、十九代宥遍は碩学、怪力でその名を世に轟かせた大徳である。

 

▼山門と寺標、山門と境内

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▼宥遍上人一担門(ゆうへんしょうにんことかつぎもん)宥遍上人一担門の説明板

ずーっと昔、飯野山(讃岐富士)の近くにある島田寺(丸亀市飯山町)に「ゆうへんさん」という力の強い和尚さんがおったんや。ある時、ゆうへんさんが高松の弘憲寺に用があって来とった。用が済んだけん、いのう(帰ろうと)しとったら、弘憲寺の和尚さんが宥遍さんの力を試そうとしたんか、「うちの大門をあげましょう。どうぞおもちくだされ」いうたやと。宥遍さんは、ものすご喜んでその大門を軽げに肩に担いで帰って行った。弘憲寺の和尚さんは、なしなった(無くなった)大門の跡に呆然とつったって、宥遍さんの後ろ姿を見送ったやと。宥遍さんは、額坂峠まできて、ちょっと休もうと大門を降し、大きな松の木を折り曲げて腰かけとった。ほんだら馬子が来て、馬の手綱を宥遍さんの腰掛けた松に括り付けようとけん、「これ、この木に繋ぐとわしが折り曲げて座っとるきん、立ったら馬が吊り上るぞ」いうたんやと。馬子は、「和尚さん、てんご(冗談)いうたらいかんわ。そんなほっこげな(馬鹿げた)ことあるかいな」いうて馬をその松に括り付けけた。「そろそろ帰るわ」いうて宥遍さんがひょいと腰をあげたとたん、馬は宙吊りになってしもうた。馬子は手をついて「もう、いらんこといわんけんけに、こらえて(許して)いた」と頼んで、馬をおろしてもろたんやと。宥遍さんが担いできた大門は「一荷担ぎの門」いうて、今でも島田寺に残っとるんやて。弘憲寺に行くときについていった鉄の杖や、碁を打って帰った碁石の跡が深こうひっこん(凹ん)だ碁盤や力試しした大きな石も弘憲寺には残っとるんやと。

みんなの県政 THE かがわより「読みがたり 香川のむかし話」より

 

 

▼鐘楼、宥遍上人墓碑

 

▼境内

 

▼本堂

 

▼由来、弁財天

 

▼楽寿観音

 

▼宝篋印塔、宇賀神

▼弘法大師千百年御忌倍増法楽也の塔、阿弥陀三尊

 

▼地蔵菩薩、境内と飯野山

 

 

<リャリ走行メモ>

▼法勲寺へ向かう、島田交点に出て右折

 

▼島田交点、県道22号線を西に進む

 

▼右()側方向に飯野山、飯山交番を通過

 

▼常楽寺に寄る、常楽寺-1

 

▼常楽寺-2

 

▼常楽寺-3、県道22号線を西南へ進む

 

▼次の交点(信号有)を左折、小道に入り南下

 

▼小道を南下、次を左折

 

▼直進し突当りを右折、法勲寺が見えてきた

 

 

引き続き、Vol.553-4/5をご覧ください。