Vol.493-1/2 生と死は対立しない。<JR沿線を歩く-41:昭和町駅~高松駅> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

 

新居宮池の動静

久し振りの早朝の宮池の姿。

 

 

沁みる言葉

生と死は対立しない

 

世界に冠たる長寿国の日本では、猛烈な勢いで高齢化が進んでいるが、老後のいい話は、あまり聞かない。これは依然として、私たちの社会は、若さということに価値をおいているというか、ここに来て未だ、老にシフト出来ないでいる。

その端的な例は、メディアが、「老」の文字を積極的に使いたがらないという。

老とは、単なる価値の喪失に過ぎないのだろうか。

 

「老」がそうであるのだから、「生」を否定する「死」は尚更だが、私たちはいずれ死ぬのだ。

もう少し、生と死の問題を考えてもいいのではないかと思う。

この時のテーマの立て方は、普通は「生と死」であろうが、仏教の捉え方は「生死(しょうじ)」と包括的だと聞く。「生と死」とした対立思考は、本質を見失わせる。

 

それは、死は否定できないが、まぁ~先のことだ。当面は、生を楽しもう、という魂胆に陥り易いのだ。そのどこが悪い、という声が聞こえるが、このような生活態度こそが、生まれてこの方、ひたすら死に向かって生きていること、生死が同時進行していることを忘れさせるのだ…と。

 

死を忘却した生がいかに傲慢か---- 胸に留めておいた方がいいと聞こてくる。

 

 

Walking & Potteringの風景

洲崎寺-全景、境内(高松市牟礼町)

 

菊王丸の墓、安徳天皇社(高松市屋島東町)

 

那須与一扇の的、景清の錣引きの伝説(高松市牟礼町)

 

義経弓流跡、総門(高松市牟礼町)

 

射落畠、神櫛王墓(高松市牟礼町)

 

佐藤継信・太夫黒の墓所、瓜生ケ丘-鉄塔の礎(高松市牟礼町)

 

長刀泉、菜切地蔵(高松市牟礼町)

 

 

 

Flower arrangement

 

 

頭上に広がる空間、空(そら)

 

 

A sesonalflower 

史跡巡りの道中出会った山葡萄(やまぶどう)

原産地は日本・中国・朝鮮半島で、ブドウ科のつる性落葉低木樹で、果実を生食あるいは果実酒にしていたが、近年、ワイン、ジャム、ジュースの原料として活用する動きがある。

 

従来、野山で自生しているものを収穫することから、ほ場で栽培することを始める地域がみられ始めた。収穫期は9月中旬~10月上旬である。

 

ウォキングコスにいていた野牡丹(のぼたん)

ブラジル地方が原産で夏から11月頃まで長いあいだ咲く。

紫色がきれいな花が牡丹のように美しいのでこの名になった。牡丹には似てはいないのだが。

色は紫の他、赤、白があるが、紫のものをよく見かける。

 

 

ウォキングコスにいていた蔓穂(つるぼ)

秋の初め頃に、山野などに生える。突然茎を伸ばし始め、うす紫色の花を咲かせる。

 

咲き始めはツクシにそっくりである。

 

 

akijiiの塗絵-(51)

今報和暦二十四節気の「夜空名月浮-秋分 shu bunです。

 

引き続き、Vol.493-2/2をご覧ください。