Vol.475-1/3 老いと病との峻別。<JR沿線を歩く-23:讃岐相生駅~引田駅> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

 

過ぎてしまえば早いもので、今日で自由人満8歳となりました。

近々、プロフィールを追記します。時間があればお目通しください。

 

新居宮池の動静

夕陽をいっぱい浴びる宮池の水上展望台。

 
 

<どう捉え、どう考える(行動)べきか>

老いと病との峻別。

 

人は誰でも歳を取り、歳をとって老いてゆく。老いの先にあるのは純粋にただ死である。

老いるとは自らの死に一歩一歩近づいてゆく事である。が、病となると事情は違う。

人間にとって「老い」は不安であり、「病気」も不安であるが、「老い」は進む一方でその先に死があり、治る見込みのない、つまり引き返す見込みのない不安であるのに比べ、「病気」は引き返す見込みの残された不安である。進みゆく「老い」を自覚して耐えるより、「病気」だと決めて貰った方が楽である。

そのために老人の多くは、ただの「老人」でいるより病名を付けられた人=「病人」になりたがる。

「老人」として死を直視しているより、「病人」でいる方が個人的にも社会的にも楽だからだ。

 

どの病院でも多くの老人群(小生も含む)を見かけるが、病院で仲間をつくり、あそこが悪い、ここが悪いと話し合う事を慰めとしているかのような…。老いて病人になるくらい容易な事はないのである。

どんな丈夫な体でも、六十も七十も使ってくれば、どこかに悪いところが出てくるのは当然の事だ。

病気をつくり出す事によって、老いを見つめる事から逃れ、死すべき人間の運命を少しでも見ないで済まそうとするは、卑しく弱い事である。

 

人は死を見つめるからこそ生を見つめる事ができるのである。老いの先にあるのは確実な死だと知るからこそ、生きている今を有り難く感じる事が出来るのである。

こういう心掛けで生きてゆきたいものだ。

 
 

Walking & Potteringの風景

向山周慶翁生誕地の石柱。

 

向良神社(東かがわ市湊)

 

 
 

Flower arrangement

 
 

頭上に広がる空間、空(そら)

 
 

A seasonal flower 

ウォキングコスにいていたアルストロメリア

南アメリカ地方が原産で、昭和初期頃に渡来した。57月頃に豊富な色あいの花が開く。

花びらの斑点が特徴で目立ち、花持ちがとても長く、切花として人気がある。

別名は「百合水仙(ゆりずいせん)」である。

 

 

史跡巡りの道中出会った天人菊(てんにんぎく)

北アメリカ原産、花壇の切花用として植えられ、高さ50cmくらいで、夏から秋にかけて黄色や赤のくっきりした感じの花が咲く。

 

 

史跡巡りの道中出会った(くり)

開花時期は6月上旬~6月末頃で、芳香がある。

()は、あの「針山」の栗になる。

 

 
 

akijiiの塗絵-(33)

今報和暦二十四節気の「夏の真ん中には冷たい梅雨 -夏至 ge shiです。

 

引き続き、Vol.475-1/3-1をご覧ください。