Vol.369-1/3に続けてご覧ください。
<かがわふるさと健康のみちシリーズ>
06:《間川三十二勝をたづねて(さぬき市志度)》
志度は、さぬき市の大字で、2012年3月31日現在の世帯数5,114、人口12,258人である。2002年4月1日に、志度町・長尾町・津田町・寒川町・大川町が合併して、さぬき市が発足して、さぬき市志度となる。
<みちの特徴>
間川三十二勝は竹林上人修業の地、史跡を探勝しながらのコースである。奇岩、清流、竹林がいたるところに見られ、春の桜、夏の涼風、秋の紅葉、冬の杉木立など、四季を通して楽しめる。
<コース・距離・所要時間>
JR志度駅→間川三十二勝(往復)周回→(JR志度駅)ことでん志度駅
3.0KM、0.7Hの案内だったが、実際は5.5kmで、探勝・撮影などで2.5Hの時間を要した。
JRで志度駅まで行き、スタートした。
▼JR志度駅をスタート、国道11号線を西北へ進む
▼県道147号を南下-1、志度高前を通過
▼県道147号を南下-2、道路案内板
▼間川32勝の駐車場へ向かう-1
▼間川32勝の駐車場へ向かう-2
▼間川32勝の駐車場へ向かう-3
▼間川32勝の駐車場へ向かう-4(工事中) 、間川32勝の駐車場へ向かう-5
▼間川32勝の駐車場に到着(工事中) 、工事中利用案内図
江戸時代、約250年前に志度の自称院住職という高僧の道を捨て、質素倹約ながらも自由な生活により、悟りを開いた竹林上人。地元では竹林さんと呼ばれ、今でも竹林上人追善茶会が開かれている。
その竹林上人が修行の地として志度の間川地区の山に自ら作り、以後10年間死ぬまでを過ごした御霊場が『間川三十二勝』である。現在は竹林上人が三十二作ったとされる名勝史跡のおよそ半分を歩いて見られるように山中が整備されている。
▼間川32勝案内図、探勝へスタート
▼探勝の道-1
寛政12年(1800)4月のはじめ、自分は6月6日に死ぬと予言すると、一と目上人のお姿を拝もうと、民衆が市のように遠近から馳せ参じた。高松藩では説教を中止させようと役人を派遣したが、それでも信者が蟻の如く集ったと、当時の記録にある。このように上人は時の世の「生き仏様」としてあがめられていた。後世には讃岐の良寛さんとも呼ばれた。
▼竹林上人の入定、探勝の道-2
▼簑厳(みのいわ)
▼探勝の道-3
▼観我厳(かんがかん)
前からも後ろからも回文になっている竹林上人自身の歌を彫り込んだ「観我巌」である。
▼探勝の道-4、ばんじ水
▼阿耨窟(あのうくつ)
▼探勝の道-5、雲門(うんもん)
▼月輪巖(げつりんがん)、探勝の道-6
満月を彫り込んだと言われるのが月輪巌だ。
間川三十二勝で最も標高ある史跡で、写真の山道横の木々はすべて桜の木、春になると大変綺麗なそうで、お花見の穴場として訪れる人も少なくない。
▼不可識峯(ふかしきほう)に到達、不可識峯-1
2m強あろうかという石棒でテッペンには宝珠とその下には9つの線が刻み込まれているが、この不可識峯は竹林上人が自分の死を予言したあとに、これも自らが作りこの場所に置いたんだそうだ。
▼不可識峯-2
▼探勝の道-7
間川三十二勝の折り返し地点が展望広場で、志度の町中は勿論、大串半島、瀬戸内海に浮かぶ小豆島まで一望できる。
▼展望休憩所に着いた、休憩所から志度湾方向を見るakijii
▼志度湾・志度町の景観、芝生広場と雲附山
引き続き、Vol.369-3/3をご覧ください。