Vol.335-1/3 器量が…。<かがわ海岸道路を往く-01-2/2:余木崎~新琴弾橋交差点> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

 

新居宮池の風景

初夏の宮池。
  


 

Walking & Potteringの風景

郷東町の貯木場、朝日新町の岸壁から北東方向に屋島。

  

 

<どう捉え、どう考えるべきか>

器量が…。

 

人生は運や環境によって様々であるが、器量のある人間になるのには、今をどのように生きるのかの積み重ねではないかと思う。

ここで言う器量とは、相手の背景までを理解し、受け入れることのできる器の大きさ、つまり心の広さや深さとし、人間の持つ器と、そこに入っているものを指すと解釈したい。


素晴らしいものを沢山詰め込んでいる器と、器だけは立派だが中身があまりないもの、器が小さくて中身が入り切らないものなど様々なケースがあるだろう。

 

器はその人の考え方で大きくも小さくもなる。

多くの本を読み、器量の大きい人や多くの人の人生に触れるような体験や経験をして自分の肌で感じ、自分で考え、自分で決めてきた人は、そのたびに器がぐんぐん大きくなったのだろう。

 

自分の経験から得た価値観や考えを確立していくことで、器の中を満たしたい。

但し、自分の価値観に執着し始めた途端、視野が狭くなり、相手との距離が出来てしまう。自分の価値観を確立させ、自立し、しっかりと生きていくことは素晴らしいが、執着しないように常に客観視していく自分も必要になる。

 

他人の真似ばかりして自分で考えない人の器は、見たり聞いたり考えたりする必要がないから、どんどん小さくなる。他人の器を気にしているだけで、自分の器はなくてもいい、ましてそれを満たすことなど必要ないとしている。

途中に辛いことや挫折することなどの困難に出会った時に、どう対処したかによって器は大きくも小さくもなるが、諦めてしまった人はそれまでだ。

 

時間がかかっても諦めることがなく、次のステップに進むと、トカゲの尻尾のように、期待はまたむくむくと湧いてくるだろう。

 

そのような状況になれば器の存在を確かめ、何を詰め込むかを考えようではないか。




Flower arrangement

  



A seasonal flower 

ウォキングコスにいていたジキタリス

  
ヨーロッパからアジアの中・西部が原産で、木漏れ日のさすような林の中や林縁に生育している。高さは60120cmほどになり、69月ごろに白色やピンク色、それに薄紫色の釣鐘状の花を咲かせる。英名は、花のかたちが手袋の指のように見えることからですが、和名でも、直訳で「きつねのてぶくろ(狐の手袋)」と呼ばれている。

  

 

小生の庭の鉢に紫陽花(あじさい)

  
開花時期は、6月上旬~7月中旬頃で、ちょうど梅雨時期と重なる。紫陽花は日当たりが苦手らしい。名前は「あづさい」が変化したものらしい。花色は紫、ピンク、青、白など色々あり、花の色は土が酸性かアルカリ性かによっても変わるらしい。酸性土壌→青色っぽくなり、アルカリ性土壌→赤色っぽくなる。花言葉は「辛抱強い愛情、元気な女性」である。

  
 

 

Akijii展、作品-128

ここ暫くは切り絵で「風物楽しむ」の新作を掲載します。

今報は切り絵仏様」です。

  
 
引き続き、Vol.335-2/3をご覧ください。