新居宮池とWalking &
Potteringの風景
夕日で影をつくる宮池の遊歩道。
<どう捉え、どう考えるべきか>
法脈の人…。
小川三夫(みつお)氏が始めて法隆寺五重塔を見たのは高校2年の修学旅行の時で、「この塔は千三百年前に建ったものです」というガイドの説明に、千三百年前にこの木をどうやって運んだのか、塔の上のあの相隣はどうやってあそこに運び上げたのか。感嘆は大きな感動に変わり、この建物を創った人の血と汗と信念を学びたいと、宮大工になることを瞬時に決意したという。
小川氏は高校卒業と同時に、当時「法隆寺の鬼、最後の宮大工棟梁」といわれた西岡常一(つねかず)氏に弟子入りを申し込むが、「いまは仕事がないし、高卒でこの道に入るのは遅い」と入門を許されなかった。氏は長野の仏壇屋で修業しながら時期を待ち、ようやく弟子入りの願いが叶ったのは、21歳の時であった。
入門した小川氏に棟梁は「一年間はテレビ、ラジオ、新聞に一切目をくれるな。ただただ刃物研ぎだけをしなさい」と言った。小川氏はその教えを忠実に守った。3カ月ほど経った頃、棟梁が鉋(かんな)で木をすうっと引き、一枚の鉋屑(かんなくず)を渡してくれた。それは真綿を広げたような鉋屑だった。
小川氏はそれを研ぎ場の窓ガラスに張り、刃物を研いでは削り、練習をした。
20年間の棟梁との生活で直接手本を示されたのは、その鉋屑一枚だけだったという。
だが、志の高い弟子は師の一挙手一投足から無限の教えを吸収していった。
そんな小川氏にも迷いの時はあったのだろう。
ある時、薬師寺の管長を務めていた高田好胤(こういん)さんにこう言われたという。「私は世間からタレント坊主といわれているが、そんなことは構わない。薬師寺のことだけを考えて私はやっている。お前も余計なことを考えず、西岡常一棟梁のことだけを考えて仕事をしなさいや」--こんなことをしていて、一人前の宮大工になれるのだろうか----ふと兆(きざ)す小川氏の迷いを一気に吹き払ってくれる言葉だった。
人間には血脈(けちみゃく)と同時に法脈(ほうみゃく)というものがあると聴く。
血脈とは文字通り血を継ぐことであり、法脈とは心、精神---魂を伝承することである。
法脈の人になっているかどうかが、事業継承の成否を分ける大きなポイントなのである。
あらゆる道、事業の継承は法脈の人を得るかどうかの一点にかかっている、といえる。
小川三夫氏(1947-)
日本の宮大工、寺社建築専門の建設会社「㈱鵤(いかるが)工舎」の創設者。宮大工 西岡常一の唯一の内弟子。
A seasonal flower
小生の庭の鉢に咲く小手毬(こでまり)
開花時期は4月下旬~5月中旬頃で、小さな花が丸く集まり、手毬のように咲くことから、「小さな手毬」で「小手毬」になった。中国から渡来した。枝は弓状に垂れ下がり、生け花の材料や茶花として利用されている。花言葉は「友情」である。
マメ科のつる性落葉低木で、関西の山地に自生し、庭木ともされる。フジに似るが、茎は左巻きで4~5月ごろ葉とともに開花し、花房はフジより短く、花は大きい。
今に息づく その時 あの言葉 その時 歴史が動いた
寝室を出るときから 今日は死ぬ番であると心に決めなさい
その覚悟があればものに動ずることがない 藤堂 高虎
1615(慶長20)年5月6日 大坂夏の陣 藤堂軍が 大坂方の軍勢を破る
戦国時代、地侍から三二万石の大名に上りつめた藤堂高虎。足軽時代は戦いぶりを記録した書状を持参し、武効を売り込みながら次々と主君を変え、その後は一から城づくりを学んで築城の名手となり、専門能力で自らの存在価値を高めた。徳川家康は転身を重ねた高虎を容易に信用しなかったが、迎えた大坂夏の陣で、高虎は先鋒を買って出、命を懸けて戦うことで家康の心をとらえる。時代に合わせて常に自己変革を続け、大出世を遂げた高虎は、自らの人生で学んだことを一編の書にまとめ、家訓として伝えた。高虎の教えを守った藤堂家は、江戸260年間、改易・転封を受けることなく存続した。
<Akijii展、再展示>
今報はシェイプアートの「おひなさま」です。