Vol.242-1/3に続けてご覧ください。
<四国八十八か所讃岐巡りシリーズ>
11:《弥谷寺》
第七十一番 剣五山(けんござん)弥谷寺(いやだにじ)千手院(せんじゅいん)
本尊:千手観世音菩薩 開基:行基菩薩 宗派:真言宗善通寺派
真言:おん、ばざら、たらまきりく
御詠歌:悪人とゆきつれなむも弥谷寺たゞかりそめもよき友ぞよき
所在地:〒767-0031 香川県三豊郡三野町大字大見乙70
<歴史・由来>
標高382メートルの小高い弥谷山の中腹(標高200m)に位置する弥谷寺、古くから死者の霊がこの山を通り、仏の世界に旅立つという信仰があり、青森の恐山、大分の臼杵磨崖仏とともに日本の三大霊場に挙げられている。現在も、死者の霊を境内にお祀りして帰る「弥谷参り」という風習が残っており、堂内には、たくさんの位牌や遺骨が安置されている。
また、3月20・21日の両日は、「春のお水祀り」と呼ばれ、たくさんの参拝者が遺骨や位牌を納たり、先祖供養のため、参拝している。
仁王門を入り、おびただしい数の石仏を見ながら、262段の石段を登ると、そこには銅製の高さ6メートルの金剛拳菩薩像がある。
この菩薩像は、元禄年間に、住僧の覚林が建立したといわれている。
そこから、108の煩悩を消すといわれる108つの階段を上がると 左手に大師堂が見えてくる。
本堂へはさらに170段の石段を上る必要があり、四国88ヶ所の中でも有数の難所といわれている。現在は有料・裏参道にて108階段前迄、車で行ける。本堂への道中の途中には、鐘楼堂、岩窟の護摩堂や岩壁に刻まれた弥陀三尊などがあり、伝説によると84,000体が弘法大師によって刻まれたといわれている。
ご縁起によると、行基菩薩が諸国を巡錫の際、この山に登ったところ、四国をはじめとする備前、備中、備後、安芸の8国が展望でき、そのことから蓮華山八国寺と名づけられ、聖武天皇が堂塔を建立し、荘田を下賜したといわれている。後に弘法大師が7歳のときこの山で学問に励み、大同二年(807)再び登山して、求聞持の秘法を修していると、五柄の剣を得るとともに金剛蔵王権現のお告げにより、千手観音を刻み、本尊とし、伽藍を再興したといわれ、剣五山の山号もこれによるものといわれている。また、寺院名もこの時、弥谷寺に改められといわれている。
現在、弘法大師が学問に励み、求聞持の法を修したといわれる場所は、獅子の岩窟と呼ばれ、大師堂奥の院としてお祀りされている。
<略縁起>
天平年間(729~749)聖武天皇(在位724~749)の勅願により開基、山頂より八ヶ国が望めることから蓮華山・八国寺と呼ばれていた。そのころ大師は幼少期で真魚(まお)と呼ばれ、この地の岩窟で勉強されていた。
大同2年(807)唐から帰国された大師は、再度この山で修行中、空から五柄の剣が下がった霊を感じ、本尊千手観世音菩薩像を刻み剣五山・弥谷寺と改号し、第七十一番札所として定められた。
その後、天正年間(1573~1592)豊臣秀吉の四国征伐の際、香川家(長曽我部元親の次男、親和)が改易となり全山焼失、慶長年間(1596~1614)生駒讃岐守により再興されている。
<境内>
参道の坂道を上がると仁王門があり、さらに石段を300段近い石段を上がると岩窟に埋もれたように大師堂がある。本堂はさらに石段を上がると本堂がある。本堂の下に鎌倉時代の作といわれる摩崖仏があり、大師はこの岩山で数万体の仏像を刻んだといわれている。
この参道は第四十五番岩屋寺に匹敵する苦しさがあり、本堂に達したときは爽快感さえもある。参道には石仏や石積みが多く、木々が生い茂り、木漏れ日が差す程度の静寂な雰囲気である。
引き続き、Vol.242-3/3をご覧ください。