Vol.239-2/3に続けてご覧ください。
<四国八十八か所讃岐巡りシリーズ>
08:《志度寺》
第八十六番 補陀落山(ふだらくさん) 志度寺(しどじ) 清浄光院(しょうじょうこういん)
本尊:十一面観世音菩薩 開基:藤原不比等 宗派:真言宗善通寺派
真言:おん、まか、きゃろにきゃ、そわか
御詠歌:いざさらば今宵はこゝに志度の寺いのりのこゑを耳にふれつゝ
所在地:〒769-2101 香川県さぬき市志度
<歴史・由来>
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望める。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹で、海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけられた。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えた。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれている。室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。
その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興された。
志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館がある。
<略縁起>
推古天皇(在位592~628)の時代、園子(そのこ)の尼が、志度湾に漂着した霊木で十一面観世音菩薩を刻み安置したのが始まりで、推古天皇の勅願所に定められたといわれている。
藤原鎌足(かまたり)の息子不比等(ふひと)は唐の皇帝妃である妹から宝珠を送ってきたが、志度湾で龍神に奪われたため、探すためこの地を訪れ海女と夫婦になり一子房前をもうけ、その妻が命と引き替えに宝珠を取り戻した。不比等は妻の墓と堂宇を建て死渡道場と名付けた。その後、持統天皇7年(693)房前は行基と共に訪れ母をとむらい伽藍を建立し、寺号を志度寺とした。
<境内>
仁王門は寛文10年(1670)藩主松平公により建立されたもので三つ棟木の工法が使われ日本3大名門の一つといわれている。
仁王門の金剛力士像は運慶の作といわれ長曽我部軍が志度に侵攻したとき、仁王門の前で馬が動かなくなり金剛力士像から後光がさしたといわれ、伽藍の焼き討ちを止めたといわれている。左手に昭和50年(1975)建立の五重塔がそびえ、さらに左手に伝説の「海女(あま)の墓」があります。参道を行くと本堂と大師堂が並んでいる。
本尊十一面観世音菩薩は国の重要文化財となっている。
▼正面口
▼案内板、山門(国指定重要文化財)
門前町の突き当たり、運慶の力作、仁王像と巨大わらじが迎えてくれる、全国的にも珍しい三棟造りの堂々とした佇まい。
本堂とともに讃岐藩主、松平頼重により寄進された。
▼仁王門
仁王門(国指定重要文化財)は、門前町の突き当たり、運慶の力作、仁王像と巨大わらじが迎えてくれる、全国的にも珍しい三棟造りの堂々とした佇まい。
▼本堂、大師堂本堂と本尊(国指定重要文化財)は、本尊・十一面観世菩薩立像、さらに両脇侍の不動明王立像、毘沙門天立像は平安時代の檜一木造り。
讃岐藩主、松平頼重により寄進された本堂とともに全て重要文化財に指定されている。
▼海女の墓、高浜年尾句碑
能楽でも詠まれる藤原家にまつわる悲話の舞台、藤原房前が母のために建立したと言われる「海士の墓」が約20基並んでいる。
--今報了--