Vol.123-1/2 江戸時代に学ぶ。<香川のみどり百選シリーズ1-⑮:紫雲山> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Greeting

本日、6/20で自由人2周年となりました。

現役時に協働したある方と10日ほど前にお会いした後、「今では現役の頃のような鋭い顔つきも影を潜め、…と穏やかに生活されている様、見受けられて……」というメールを頂戴しましたので、小生の近況として紹介いたします。

明日から3年生、元気に暮らして参ります。よろしくお願いします。


Flower arrangement

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<どう捉え、どう考えるべきか>

江戸時代に学ぶ。


江戸時代には庶民文化が花咲いた。

厳しい身分制度が存在したが、実態的には支配階級であった武士が権力・富・栄誉の全てを独占するという「配分の一極集中」が起こらず、これらが比較的うまく各階級に配分されていた。このことが庶民文化の開花という極めて珍しい現象が起こった原因である。

日本の平和国家の形は、江戸時代にあったという有識者が多い。


1718世紀の日本は、藩が中央政府から独立し、きわめて効率のいい地方分権が出来あがっていた。さらに、農村もかなり昔から自立していて、多くの権限は地方三役の人たちに任されていて、官の力は農業などにも強く及んでいなかった。


都市においても、奉行所はあまり大きな組織ではなく、時代劇で「御用、御用」と出て来る人たちは町方で奉行所に雇われた民間人であった。しかもその中から与力が出たりした訳である。

警備も、消防も民間人に任せていたのだから、かなり民主導の分権システムが出来ていたのだ。


「支配者層」と「被支配者層」がくっきり分かれるヨーロッパでは考えられないことで、同時期のヨーロッパでは、ほとんどの富も権力も、すべてが一部の支配者層に集中していた。だから、ルーブル宮殿のような豪華絢爛な建造物が生まれる一方で、庶民は「農奴」と言われるように、ほとんど支配されるだけの身分に終始してしまう訳である。

ヨーロッパで富がエリートに集中したのは、何よりも「領土」を持っていたからだ。だからその土地で農業を営む人々は、原則的に領主に帰属して耕させてもらう存在になるためだ。


一方、日本の支配層は武士になるが、これを社会人類学者の中根千枝氏は「制度的エリート」と呼びその特徴は土地を所有していないことである。武士は徴税権こそ持っていたが、原則的に農地は百姓さんのものであった。だから多くの武士は、決してお金持ちではなく、「一汁一葉(さい)」といって、倹約を重んじ、非常に質素な生活をしていた。

富を持っていたのは、豪農とか庄屋とか、豪商だった。

つまり、分権化で平等で、支配者と被支配者の間にあまり格差のない社会がつくられていたのだ。そんな理想的な社会が、すべて江戸時代には実現されていた。


この江戸時代のシステムを見直して、現在の日本を改革する余地は沢山ありはしないかと想う。課題は多いが、その最たるものは「地方分権」ではないだろうかと…。


<新居宮池とWalk風景から聞こえるのは>
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This flower小生の庭の鉢に咲紫陽花(あじさい)
開花時期は、6月上旬~7月中旬頃で、ちょうど梅雨時期と重なる。

紫陽花は日当たりが苦手らしい。名前は「あづさい」が変化したものらしく、日本原産である。本来の「紫陽花」とは、唐の詩人の白居易さんが命名した別の紫の花のことで、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)が、今のあじさいにこの漢字をあてたため誤用がひろまったらしい。中国では「八仙花」または「綉球花」と呼ぶ。

花の色は紫・ピンク・青・白などあるが、花の色は土が酸性(青色っぽく)か、アルカリ性(赤色っぽく)かによっても変わるというが、土によるのではなく遺伝的に決まっている、という説もある。

花言葉は「辛抱強い愛情、元気な女性」である。

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<香川のみどり百選シリーズ1-:紫雲山(稲荷山・室山)
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山名<しうんざん>

・みどり
<番外>

・里山の番号<27
所在地<宮脇・室新町

・標高<180166200M

---山歩き出会い<6>人

登山記帳<無>



再登山へ勝手な想い度<★★★☆☆


古墳巡りや健康づくり、市民に親しまれる鎮守の杜が、紫雲山である。天下の名園「栗林公園」の借景をなす丘陵群である。岩石学の専門家によれば、屋島に先行すること四百年前、いまから千二百年前の時代に噴出した古銅輝石を含む安山岩を主体として成り立つ山である。

昭和48年に始まった高松市の月例市民ハイキングも、この地で誕生した。テーマは「古墳巡り」であった。高松市民の憩いの森であり、神仏の宿るまさしく「鎮守の杜」といえよう。

高松サバクのたった一つの「緑の弧島」といわしめた昭和48年の水飢饉。時の流れをよそに、紫雲山を懐に、奥ノ池や御殿池が静かに佇んでいる。水を育む里山は、「水の神様」であることを静かに教えてくれている。稲荷山と室山という二山の総称で、市街からほど近くにあり、名庭園として名高い栗林公園を麓に見下ろしている。


自宅からJRで出発し栗林公園北口駅で下車、稲荷大明神の横から山道へ入り、南へ山道を一途に進んだ。


▼稲荷大明神の横から登る、登りの階段

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▼山道

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室山への急勾配の登山道をロープに頼って登った。
▼室山への登山道
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室山の山頂は近い。
▼山頂は近し、西日本放送の空中線鉄柱
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北口駅から室山山頂(200m)まで40分を要した。
▼室山の三角点とakijii
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▼室山山頂の西と北の眺望
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▼室山山頂の東と南の眺望
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室山から逆送して紫雲山山頂(180m)に入った。
▼紫雲山山頂とakijii
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▼紫雲山山頂の西と北の眺望
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▼紫雲山山頂の東と南の眺望
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引き続き、vol.
123-2/2をご覧ください。