(四十三) 右往左往
船は、万国共通で「右側通行」だということを最近知りました。 船舶関係の免許を取る人が最初に学ぶことだそうで、何十年も車しか運転したことのない文球院は、あんな広い海にも国境と関わりなく世界共通の規則が守られているのだと感心しました。
日本では船舶以外は「左側通行」。 当り前のように思っていますが、船の航行規則と違って「左側通行」は世界でも珍しく僅か10%です。 イギリス・オーストラリア・ニュージランド・インド・パプアニューギニア・香港と日本だけで、これ等の国なら右折方法が違うだけで、文球院も国際免許で運転可能。
実は古代ローマの荷車や戦車の轍(わだち)の形跡からも昔から世界は「左側通行」で、これを強引に世界の90%の道を右側通行に変えさせたのがフランス革命でのナポレオン!! 1792年に法令化し、占領下の国々をインフラ整備のために統一したそうです。 考えてみればナポレオンの統治下に無かったイギリスとその植民地、それに遠い島国日本は、左側通行を守り通したという訳です。 ナポレオンが右側通行にこだわったのは彼が左利きだったからとか、敵の左翼を攻撃するのが最も有効だったとか、銃の時代に敵を狙うのに有利だったと諸説ありますが、文球院は世界の国の殆どを右側通行にさせてしまったナポレオンはさすがに「彼の辞書には不可能の文字が無い」という伝承が満更でもないと実感し、目からうろこが落ちました。
日本人が左側通行を守り通した理由の一つには、武士が腰に差す刀にあるらしいのです。 狭い日本の道路では右側通行では刀の鞘がすれ違いざまに触れて揉め事の起因となるので、自然に左側通行がルールとして定着したことと、明治以降あらゆる面で英国方式を優先して取り入れたので、道路交通法は「左側」に決定したのです。
近代の船舶は動力を蒸気タービンかデイーゼル機関でスクリューを回転させ、舵も後尾中央についていますが、近代化以前の北欧諸国の、人力や風力で世界を駆けた船舶の舵は、船の右側のオール(櫂)で行っていました。 それが破損されないように、港での荷の積み下ろしは必ず左側でしか接岸しなかったところから、船の左舷のことをポートサイド(portside)と呼んでいます。
現代は船の働きの一部がより便利な航空機に代わっていますが、飛行機の搭乗口は非常時は別として、船舶の影響で左側しか利用していないそうです。 確かに言われてみればその通り。 進路変更の舵であるオールもついていないのに不思議な影響を受けたものだと目からウロコ……です。
なるほど、船長も機長もキャプテンと呼ぶし、飛行機もシップ、客室もキャビン、乗員もクルー等々長い長い船の歴史が、この用語使いから見ても空飛ぶ乗り物に影響を与えているのだと想像できます。
文球院の住む横浜のみなとみらい地区に、初代の日本丸がメモリアルパークの展示ドックに係留されており、その横を通る度に亡き義父を思い出します。 1927年(昭和2年)に鹿児島商船水産学校の練習船が房総沖で暴風雨のため乗組員53名全員死亡するという惨事に、将来の海洋国日本を背負う若者を育てるため、膨大な国家予算をつぎ込んで大型練習船の建造がなされたのが「日本丸」。 1930年(昭和5年)に神戸の川崎造船で進水式。 進水したばかりの帆船は「艤装船」と呼ばれ、全国11の商船学校から選抜された生徒が集められ、義父も函館から参加。 マストを建て、ヤードを吊って帆を装着し、ロープと滑車も装着して甲板を磨き、日本丸は初めて息吹を吹き込まれたのです。 義父が「太平洋の白鳥」と呼ばれる優美な姿より、強風に帆を絞り蜘蛛の巣のように張られた何百本のロープが、風に鳴る姿の方が好きだった……と語っていたのが今でも忘れられません。
太平洋戦争の末期に、軍に徴用された商船の船長として敵襲に遭い、三日三晩を海中で過ごした話を人伝てに訊いただけで、義父は何も語りませんでしたが、筆舌につくせぬような事だったからでしょう。
戦争中に徴用された民間の商船の内3,500隻、漁船・機帆船が3,500隻、その乗組員6万人以上が犠牲になった記録を読み、戦時のジュネーブ条約の、負傷兵や文民の保護など一切無視されており、これが戦争の現実なのでしょう。 幼き少年だった文球院は、ラジオから流れてきてすぐ覚えた軍歌「暁に祈る」の一節を切なく思い出すのです。 「 ああ、堂々の輸送船 さらば祖国よ栄えあれ 遥かに拝む宮城の 空に誓ったこの決意 」
文球院が船を利用した経験は極く僅か。 仕事で四国へ行く時に利用した宇高連絡船や、千葉への東京湾フェリー。高校の修学旅行で大阪から関西汽船で四国経由して別府へ。 なぜ名古屋の高校生が別府温泉と高崎山の猿だったのか今頃になって分かったのです。 実は関西汽船のこの航路は、別府温泉組合が観光誘致のために始めたのです。 先生方も余程疲れていて温泉に浸かりたかったのでしょうか。 帰りはバスと汽車で出雲大社・日御碕灯台・秋吉台・秋芳洞。 なぜ同じカルデラ地帯の秋吉台の地下にある日本一の鍾乳洞が「秋芳洞」と「吉」の字を変えるのか? 高校時代からの疑問もやっと最近解けました。 昭和天皇がまだ皇太子であった頃(1926年)、単に「滝穴」と呼ばれている大きな鍾乳洞に案内されて大感激。 後に宮内庁経由で命名され、「芳」の字になったそうです。
このブログを書いている最中に、偶然知人から月刊誌が贈られてきましたが、寄贈された雑誌名がなんと「船の右側」。 このネーミングに驚く人も多いのですが、実は新約聖書「ヨハネの福音書」からの引用で、イエスの一番の使徒であったペテロ(初代ローマ教皇)たちが、もともと漁師であったのでガラリヤ湖で漁をしていたが一晩中全くの不漁。 夜が明けてあきらめようとした時誰かが岸辺から「船の右側に網を降ろしなさい」と言っているので、まさかと思いながらもその言葉に従ったら、網にすくえぬ程の大漁だった……つまり今までの知識や経験が邪魔するけれど、無条件に主のお言葉に従えば、大きなみわざをみるのです……。
雑誌の名を「船の右側」と決めたクリスチャンの人達の思いが、伝わってくるようでした。
辻褄の合わぬことには簡単にうなづけず、徒に年齢だけ重ねながら「右往左往」ばかりしている文球院。
さて、この先は右か左か??と言ってはみたものの、あと僅か……。
(2018・10・20)