久しぶりのB727のお話。。
(前回↓)
時は1960年代に入った頃。。
当時の日本国内では巨大な2社と比較的大きかった1社、、後に王手3社とされる、
日本航空(JAL)
全日本空輸(ANA)
日本国内航空(JDA)
では熾烈な競争が繰り広げられていた。
特にJALとANAでは次々と新機材、新機種の導入を繰り返していた。
この中でJALが国内線にコンベア880を就航させたことで、ANAとJDAは羽田~札幌の稼ぎ頭の幹線でシェアを奪われる事への危機感が増大し、両社においてもジェット機の運行の機運が高まることになる。

この加熱する競争で各社の健全な経営に支障が出ることを懸念した運輸省では3社に対して
「国内線のジェット機材は
       同一機種を採用することが望ましい」
との方針を示した。
これにはジェット機の運行経験のないANAとJDAの運行能力への懸念もあった。
こうして選定されたのがボーイング社のB727であった。
で、今回の模型はこちら。。
    ANA B727-200です。

3社合同での機材選定では意外と多くの候補が上がっていた。
トライデントやBAC-1-11、ダグラスのDC-9等々、、
この中で信頼性やキャパシティなどから最も大きなB727が選定された。
JALとANAの発注は64年に行われ、65年から引き渡しが開始されることになったが、
ここで問題が起きる。。
発注のタイミングからJALが先行して引き渡しを受けることになった事にANAでは
「新型機のインパクトがなくなる!!」
との懸念の声が上がった。
このためANAは予想外の方法でお上とJALを出し抜くことにした。
65年4月、、
羽田~札幌にANAはJALに先んじて新型機B727を就航させる。
既に運行してきたアメリカのユナイテッド航空から機材と乗務員をそっくり借りての運行、、
ウェットリースでの就航でした。
後に発注機を受領したJALも羽田~札幌に投入するも、B727投入のインパクトはANAに持っていかれる事態となった。
B727にかけるANAの期待は並々ならないものであったのも、この導入劇を実行する要因でもあった。
一方で、2社とは温度差の大きかったJDAは同様に65年から運行するも、導入は2機にとどまった。
国内に幅色い路線をもつANAにとって同機は非常に使い勝手がよかったらしく、その後も導入を続け、最終的には日本航空(リースやJDAからの編入を含め)の20機の倍となる43機を導入。
その半分以上がストレッチ型の-200であった。
しかし!!
実のところではB727-100は日本の航空事情にはやや不足気味となっていた。
JDAでは東亜航空と合併後にDC-9に置き換えられる形で74年に運行を終了。
JALでも大部分は75年に退役。
チャーター便等で細々と残っていた2機も87年に退役した。
一方でB727にあれだけ期待したANAはなんと3社で最も早い73年には-100型を全機退役させていた。ストレッチ型の-200型の増備とB737-200の導入により置き換えていました。
各社で主力の座を失うなかでもANAではローカル線を中心に身近な飛行機として飛び続け、万能機として名高いB767の導入により84年より退役を開始。
1990年4月27日、山形~羽田線を最後に完全退役。65年のANAによるサプライズ就航から35年にわたった活躍に幕を閉じたのでした。

さてはて、、
このB727。。
国内線ジェット化に大変貢献した一方で、航空産業の成長期に活躍したこともあり、今の航空機の安全性に関わる変革を促すきっかけとなることもあった。

まずハイジャックの舞台となる事が多かった。。特に有名なよど号事件(実はJDAの機材だったりする)やアカシア便事件、その他4件の合計6件もの事件の舞台となり、ハイジャック時の対応などを定めた法律の整備が進められた。

また就航当初はブラックボックスなどの記録装置を搭載しておらず、ANAで発生した墜落事故は記録装置の搭載が進められるきっかけとなったのでした。
現在の日本の旅客機の安全性はB727の就航から大きく動いていったとも言えたのでした。

今回の模型
メーカー:全日空商事(ヘルパ製)
スケール:1/500
キャリア:全日本空輸(モヒカンルック)