阿部野神社③学問・知恵・勇気の神。おかげさまと「誠の道」と。 | 神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

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神様仏様、巡礼、登拝を経て「ねえさんぽ」で生まれた感動は、空海さんとの出会いにはじまり神仏さまとの結びへと繋がっていく旅の軌跡(主な巡礼地:奈良・京都・大阪・兵庫・四国)
あなたがいて、わたしがある
世界があって、わたしがある
そんなシンプルな道をともに生きたい

こんばんは!




@Rico です。




2024大阪巡礼ねえさんぽ👣

阿部野神社⛩️さんの続きです^^


(なにげに今回がラストシリーズ✨)




御本殿〜奧宮に隣接して

二つの鳥居⛩️


勲之宮



御祭神


南部師行公✨

その一族郎党百八名の御霊




南部師行公は、
☑️ 根城南部氏(八戸氏)の当主で、陸奥守北畠顕家公が後醍醐天皇の皇子の義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)に下向されると、師行公はこれに従い、数々の功績を治められた。

☑️ 足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、顕家公は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥の地を離れた。師行公は、陸奥を守備するために弟の政長公と共に残留し、尊氏側についた軍勢と戦い、みごとその留守を守られた。

☑️ 延元二年(一三三七)に顕家公は、陸奥における南朝の拠点を伊達郡霊山(現、福島県伊達市)に移し、当年の八月、勢力を盛り返した尊氏を討つため、師行公は顕家公と義良親王に従って、京へ向けて出発。
☑️ 陸奥を出発するにあたり、師行公は政長公と信政公に「此度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい」という遺言を残す
☑️ 「自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家卿と帝の恩恵に浴することができたからこそで、たとえ帝の政に瑕疵があろうが、安易に節操を曲げてはならない。」と戒められた。

☑️ 美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いでは北朝方を破ったが、同年、阿倍野・石津の戦において南朝方は北朝方の高師直の軍に敗北し、師行公は、顕家公の戦死の報を聞くと僅かに残る一族郎党百八名と共に敵陣に斬りかかって、壮烈な最期を遂げられた。



歴史の舞台には、必ず勝ち敗けがあり

そこにはどうにもやるせない想いがあるもの。



お社の扉には

向かい鶴




二羽の鶴が胸に九曜の紋をつけています。


→これが、南部家の家紋なんだそう❗️



戦勝祈願をした際に、南部光経が見た夢

《夜明けの空に二羽の鶴が舞い、九曜の星🌟が

 降ってくる夢》にちなんでいます🙏




さらには

祖霊社




御祭神は、

阿部野神社の歴代宮司、奉賛会会長、氏子総代、

崇敬者の方々の御霊



祖霊社のことはあまり書かないけど、

ここでは触れる必要があるな、と感じました🙏



人は帰幽すると、その御霊は御祖の霊神と共に霊界に留まり、累代の祖霊社に鎮祭されて、一家の守護神となります。当社の今日あるのも祖先の賜物であって、日々の営みも社頭の励みも子孫の教育も、総て祖霊の加護によらなくてはなりません。
そのため当社では篤くその高恩を謝し、深く心に銘じてその祭祀の厳修を怠らないようにお祀りしております。



多くの御霊のご加護のおかげさまを

忘れないように。。。🙏



いま在ることが、本当に奇跡の積み重ね。




🙏🙏🙏



祖霊社をお祀りする場所では、

手を合わせたいものです。




ラストに御朱印を授かり、

参拝のときにいくつか気になったことがあったので

少しお話させていただきました。






阿部野神社⛩️さんは

その冠に


学問の神✨

知恵の神✨

勇気の神✨

とあります。




人が生まれながらに持つ

「学び」「知り」「行動」する能力


それが、かけがえのない大きな力である、と

教えてくださっていますね✨✨✨



→必要なものは、既に在る‼️




敢えて付け加えるならば、


そこに

「魂が振るえるまでの想い」を

「けがれなき想い」を

常に思い出し持ち続けられるかどうか。


信じる「誠の道」を歩むと決めるかどうか。





やはり、武将の魂は響きますね‼️




てなワケで

次の場所に向かいますよ🏃‍♀️💨






では。




いつも、ありがとう^^




@Rico




幸せは自分のために

世界が平和であるために