【施餓鬼会。本来の目的をしること→幸せとは?】 | 神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神様仏様、巡礼、登拝を経て「ねえさんぽ」で生まれた感動は、空海さんとの出会いにはじまり神仏さまとの結びへと繋がっていく旅の軌跡(主な巡礼地:奈良・京都・大阪・兵庫・四国)
あなたがいて、わたしがある
世界があって、わたしがある
そんなシンプルな道をともに生きたい

こんばんは!




@Rico です。




本日は、21日✨

お大師さまのご縁日ですね^^


→てか、通常運転の仕事やったけどw




(初弘法のときの記事⬇️)



懐かしいな✨✨✨



川崎大師さんにうかがいたかったけど、

無理やった。。。笑い泣き






して。



先日の護国寺さんでの

大施餓鬼会





あらためて、

施餓鬼について調べてみると


あらたな発見💡があったのよねグラサン



▪️宗派によって異なる点

 餓鬼道については、同じ仏教といえどもそれぞれに違う考え方が根付いているそうびっくり


ちなみに、

浄土真宗では、施餓鬼法要はない❗️

のですねキョロキョロ


浄土真宗で、施餓鬼法要が行われることはありません。
なぜならば、亡くなった方はすぐに極楽浄土へ向かうという考え方があり、霊魂が餓鬼道へ落ちるといった概念がないためです。



ふむ🤔


なるほど。


そのほかの宗派では、以下のような内容みたい。



真言宗

真言宗での施餓鬼は、主に夕方から行われます。その内容は、護摩を焚いて祈祷するというものです。餓鬼への施しは連日でも良いといった教えのため、他の宗派より多い回数で施餓鬼が執り行われます。

日蓮宗

日蓮宗では、その昔に「川餓鬼」となってしまった鵜飼の霊魂を、日蓮上人が三日三晩掛けて成仏させたという説話が語り継がれています。この伝承から、「川施餓鬼」と呼ばれる供養が全国で行われるようになりました。

臨済宗

臨済宗の施餓鬼では、祭壇へ線香をあげる代わりに、米や水を手向ける「水向け」を行います。また、普段の食事でも、餓鬼へ向けて7粒の米を取り分け屋根に撒く「施食作法」も取り入れられているのです。こうして、飢えや渇きで苦しむ餓鬼を助けることによって徳を積みます。

曹洞宗

曹洞宗では、施餓鬼会ではなく「施食会(せじきえ)」と呼ばれることが多いです。曹洞宗には、施す側の人間と施される側の人間は、全て平等であるという教えが浸透しています。したがって、霊魂を餓鬼と呼ぶことに対し、差別的と判断されているようです。



さらに、さらに。


▪️お盆の時期に行われることが多いけど、

先祖供養とは別の意味が込められている




こちらで記した

五如来の記された旗。


施餓鬼旗と呼ぶらしく、

この如来さまが餓鬼となった御霊を救う

手助けになるのです🙏




(五如来については、以下↓)


宝勝如来(南方宝勝仏)


 宝勝如来は別名、「多宝如来」ともいう。布施をせず、むさぼりの業を為したため餓鬼世界で苦しむ者を救済し、円満ならしめる仏である。この仏は釈迦如来とともに、多宝塔にまつられている。なお、宝勝如来と釈迦如来は本来同一であったという。二体並座したこの仏は、あらゆる人々を永遠に救い続ける、ということを象徴している。


妙色身如来(東方阿門仏)


 妙色身如来は、「阿門仏」のことである。悪業を因とした醜い身体・形相の餓鬼を救う仏である。妙(美しい)なる色身(からだ)の仏、という意。誠意ある施餓鬼供養を通じて、供養する我々は自身も穏やかな表情になれるよう願うのである。「阿門」とは、「無瞋恚」と同じ意で、怨みや怒りから解放された状熊、とされている。なおこの如来は、東方世界に妙喜浄上を建設した仏である。

甘露王如来(西方阿弥陀如来)


 甘露王如来は、「阿弥陀」のことである。餓鬼世界はいうまでもなく、苦しみに満ちた世界である。この如来は、その筆舌を越えた苦しみを取り除き、心身を安穏ならしめる仏である。ちなみに「甘露」とは、「心身を潤すもの」という意。阿弥陀が別名、無最寿如来・無量光如来と呼ばれているのは、この仏の智慧(光)と慈悲(寿)が無量(際限ない)ということを象徴するからである。


広博身如来(中央大日如来)


 広博身如来とは、「大日如来」のことである。食事を欲しても、喉が狭くて食べることのできない餓鬼の咽喉を大きくし、飲食の楽しみを与える仏(密教系統の仏)。大日如来はいうならば、宇宙の生命、人間、天地のすべてを「仏格化」した仏である。

離怖畏如来(北方釈迦如来)


 離怖畏如来は、「釈迦」のことであり、慈悲仏である。餓鬼世界では、餓鬼は常に恐怖におびえているため、その恐怖を取り除くことを目的とした仏といってもよい。釈迦が座っている状態の手の形を「施無畏印」・「与願印」といい、 これは釈迦の悟りの内実、根本的な願いを、手の形で表している(印相)のである。なお「印」は、不安を取り除く、というサインでもある。




施餓鬼会の本来の目的は、


先祖供養ではなく仏教の真の目的である、

六道を離れて本当の幸せになることを教えるため


とあります。






祈りは誰のために。

みずからの幸せに気づくために。



そんな側面もあるのやと、あらためて認識✨




本来の目的をしること。

そして

俯瞰してみる視点を忘れないこと。




そんな気づきもいただいたタイミングに感謝🙏





幸せとは。


気づくこと。





では。




いつも、ありがとう^^




@Rico




幸せは自分のために

世界が平和であるために