四念処(しねんじょ)・四念住(しねんじゅう)という瞑想 | 神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

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神様仏様、巡礼、登拝を経て「ねえさんぽ」で生まれた感動は、空海さんとの出会いにはじまり神仏さまとの結びへと繋がっていく旅の軌跡(主な巡礼地:奈良・京都・大阪・兵庫・四国)
あなたがいて、わたしがある
世界があって、わたしがある
そんなシンプルな道をともに生きたい

おはようございます!





@Rico です。






今日は、
朝から瞑想の話をしてみるよニヤリ






「四念処・四念住」は気づきの瞑想、

いわゆる「ヴィパッサナー瞑想」と言われます。




 

そして、四念処というのは


・身体について

・感受について

・心について

・法(ほう)のもろもろの事象について


正しく自覚し、よく気をつけて、

貪欲や憂いを除去していきなさい。




ということになるワケねおねがい








(↑こちら、

タイの有名な寺院「ワット・ホー・プラケオ」

にあるエメラルドブッダ









では、




具体的に




不浄観ふじょうかん

四顛倒してんどう

見る瞑想




ってどんなん?






(↑気になるよねーーーニヤリ






それでは、

ここから身体の観察について説明していくよ。




↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓





まず、森にいき、

樹木の根元や、空き家などで、

足を組んで坐り、姿勢をまっすぐに正して、

念ずることを目の前に据えて坐るのです。




(↑えっ?森に行かなきゃダメなん?って

ツッコミは、とりあえずなしでねグラサン





つぎに、

念をそなえながら息を吸い、

念をそなえながら息を吐くのです。






※念をそなえる、というのは

「念ずることを目の前に据える」ことね








具体的なやりかた




〈入息出息の方法〉



長く息を吸えば、

「わたしは長く息を吸っている」(入息)と知り、
長く息を吐けば、

「わたしは長く息を吐いている」(出息)と知る



短く息を吸えば、

「わたしは短く息を吸っている」(入息)と知り、
短く息を吐けば、

「わたしは短く息を吐いている」(出息)と知る



身体全身で感受しながら、

「わたしは息を吸っている」(入息)と知り、
身体全身で感受しながら、

「わたしは息を吐いている」(出息)と知る



身体の活動の「行」を鎮めながら、

「わたしは息を吸っている」(入息)と知り、
身体の活動の「行」を鎮めながら、

「わたしは息を吐いている」(出息)と知る






そして、なにものにも依存しなくなり、

世間のなにものをも執着しなくなります。

このように、

身体について身体を観察していくのです。






むむむっ

(°▽°)








これでは、分かりません!!!

という場合、



以下のような思考の順番になっている、と考え

順を追って

見つめてみてみよう照れ







入息出息は何に依存しているのか?


それは、業によって生じる身体に依存している。


身体は六処の感覚器官があり依存している。



六処の感覚器官の接触の対象が煩悩になり

依存している。



依存する煩悩・渇愛の原因は、

十二縁起支の縁によって生起する法にすぎない。



生起した煩悩・渇愛が

瞑想で心から滅してなくなる、

衰滅の法を観察する。



諸行無常・諸法無我・一切皆苦を念ずる

観察を増大させる。



「ただ身体のみが存在する」と

ありのままの自分に気付く。



渇愛・邪見に依存しなくなる。








十二縁起の縁とは


十二縁起とは、

煩悩が発生するメカニズムを

「身体の感覚器官と心理作用を12に分解」して、「縁起」で説明されている








・六処(ろくしょ)

6つの感覚器官のこと

「体(触感)・目・耳・鼻・舌・意(思考・記憶)」の6つを指します



・触(しょく)

「六処」が情報(外部要因)に触れて

認識が生まれます。



・受(じゅ)

感受(かんじゅ)して

「快(ここちよい)

・不快(ふかい) 

・どちらでもない」

いづれかの3パターンが生まれます。


「苦・楽・普通」の3パターンでも表現されます。




・愛(あい)

感受から煩悩(ぼんのう)の三毒(さんどく)の

・貪欲(とんよく・むさぼり)

・瞋恚(しんに・いかり)

・愚痴(ぐち)が生まれます。



・取(しゅ)

「愛」が繰り返し起こり、何度も思い出して、

「執着(しゅうちゃく)」が生まれます。



・有(ゆう)

「取」が強くなると、身口意(しんくい)

「からだ・ことば・こころ」で現れてきます。

その現れた行いが「業」(ごう・カルマ)です。

身口意の行いが三業(さんごう)です。



・生(しょう)

「有」で現れた行いが、他の身口意の三業を

生み出します。



・老死(ろうし)

この縁起の一連で現れて強くなった煩悩が、

弱まり分解されて、無意識の無明に行きます。

生命が尽きて死んでしまう意味も含まれます。



《ここまで↑↑↑が表面上の意識で発生する感覚》

《ここから↓↓↓が無意識の領域で発生する感覚》



・無明(むみょう)

無意識の領域の「苦の根源」です。

真理に暗い、「苦」の解決をしらない、

「四諦」(したい)の理解がないことです。



・行(ぎょう)

形成(けいせい)しようとする意識です。

三法印(さんぽういん)の

諸法無我(しょうほうむが)の、

自己を形成する五つの要素、

五蘊(ごうん)の「行」(ぎょう)と同じです。


(三法印とは

ブッダが見たありのままの真理の世界の

「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」のこと)






・識(しき)

「行」の欲求から判断して識別するこころが

無意識で生まれます。

上記の、三法印(さんぽういん)の

諸法無我(しょうほうむが)の、

自己を形成する五つの要素、五蘊(ごうん)の「識」(しき)と同じです。



ブッダは、

自分の存在は単体で成り立っているのではなく、

五つの要素の五蘊(ごうん)から成り立っている

としたのね




・名色(みょうしき)

「無意識」での心と身体です。





そして、また六処(ろくしょ)に

つながっていきます。








いわゆる、涅槃の境地

(密教でいうところの「空」)に

達するためのひとつの方法なんやろねウインク




大乗仏教での「常楽我浄」

(じょうらくがじょう)は

涅槃の境地を表した意味で

用いられることがあって、


涅槃の覚りの徳は絶対の永遠の常であり、
楽しみであり、
能動的な自在者の我であり、
きよらかな浄である、


四つの徳で、四徳(しとく)と呼ばれるのよ。












ちょっと長くなったので、

ブッダの真理については、また今度ウインク









では。







いつも、ありがとう^^








@Rico 


幸せは自分のために

世界が平和であるために