藤井飯田論争(?)に関する個人的な論点整理(後) | 空き地のブログ

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前回の続きです。

 

【藤井聡】飯田泰之氏のVoice(2014年3月号)への寄稿論説について

http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/02/18/fujii-76/

 

乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問――藤井聡先生へのリプライ

http://synodos.jp/economy/7198

 

『乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ』への追加コメント

http://synodos.jp/economy/7259

 

財政政策に関する政策的・思想的・理論的課題――藤井聡氏からの再コメントへのリプライ

http://synodos.jp/economy/7261

 

「財政政策に関する政策的・思想的・理論的課題」を巡る討論における、藤井からの再追加コメント

http://synodos.jp/economy/7322

 

********** ********** **********

 

※藤井氏の発言を、飯田氏の発言をで表記しています。 

 

①~③の内容をカンタンにまとめると、「政府支出がGDP統計上でどのように扱われているか」に端を発して「“無駄な”公共事業と給付金とではどちらが経済効果が大きいか」という議論に発展し、公共事業の実施に伴う「民間経済活動」の価値をどう評価するべきか、という論点が出てきた(建設業の供給制約という大問題について、飯田氏から重要な指摘があったが藤井氏が議論放棄してしまったため、この論争そのものの意義が大きく毀損されてしまっている感は否めないが)、といったところか。 

 

 

 

さて、③において“憶測”と「“無駄な”公共事業における「フロー効果」論」を展開した藤井氏に対して飯田氏は、“憶測”に基づく認定を「全くの誤解です。私は文中でこのような限定的な主張は全くしておりません。(④参照)」と指摘した上で、平均的に民間は政府よりも合理的に投資を行うことはこの国のシステムが自由主義経済であることからの当然の帰結である、と主張。さらに、

 

政府支出を正当化するのは、 

 

・民間にはやりたくてもできないことがある 

 

という事実です。その典型例が社会インフラの整備です。政府によるインフラ整備が大きな重要性をもつのは、 

 

・民間企業ではファイナンス出来ない大規模事業である 

・消費の非排除性が強く、民間企業による供給は(対価の徴収面で)困難である 

 

という公共財供給の場面でしょう。社会インフラ整備が未熟で、このような条件を満たす案件があふれていた高度成長期に較べると確かに減ってはいるでしょうが、現代の日本においてもこれらの条件が満たされる箇所は少なくないと考えています。東日本大震災を経てむしろ必要なものが明確になったと言っても良いでしょう。だからこそ、十分な費用便益分析をふまえ、長期的な(コミットメントのある)計画立案を行った上で社会資本の整備を行う必要があるという主張に繋がるわけです。

(④参照)』

 

と、非合理的な投資も目的如何では正当化されることを指摘した。

 

まさにその通りだと思う。民間でできないようなことをやるのが政府の役割であって(民間であらゆる投資を網羅できるならそもそも政府は必要ない)、公共事業を行う意義が「より経済効果がある≒効率の良い投資ができる」という理由であっていいはずがないのである。

 

一応この論点では藤井氏も、

 

政府には政府の合理的になる根拠(政治プロセスで長期的合理性を確保しようとする意図がある等)があり、不合理的になる根拠(マーケットによる退出プロセスが無い等)がある、同様に、民間には民間の合理的になる根拠(マーケットによる退出プロセスがある等)があり、不合理になる根拠(長期プロセスがないがしろにされる傾向がある等)がある

(⑤参照)』

 

と、一定の理解を示している(実際のところは微妙。合理・不合理の話は本来「民間と政府の役割の違い」に起因するはずなのだが、それを「どっちもどっち」に落とし込んでお茶濁した感が強い)。

 

 

 

「フロー効果」について、飯田氏は、

 

私の主張は、 

 

C’)「無駄な投資」と「所得移転」が景況感にあたえる影響は同じである 

 

というものです。

(④参照)』

 

として否定。その理由として「10億円分の穴を掘って埋める工事」を例にして、

 

10億円のうち、5億円が労働者に、3億円が重機のレンタル代に、1億円が事業主に、1億円が交通費に用いられるとしたならば、これは労働者に5億円、レンタル業者に3億円、事業主と運輸会社に各1億円の給付金を支給したのと同じことではないでしょうか。無駄な公共事業は支給先を限定した給付金であると考えられるのです。

(④参照)』

 

と説明。

 

ちなみに、この話では細かいこと(労働の不効用(働いて疲れることによるマイナスの効用)、減価償却(生産設備の使用による価値低下))はカンタンのために無視されている。

 

要するに、前回の記事で私が述べたような「結局のところ、その(無駄な)公共事業では何も「価値」を生み出していないのだから、公共事業を実施するためになされた経済活動それ自体には本質的には経済効果は無い(ただし、GDP統計上はあるように見える)」ということである。

 

その上で、

 

ここでの私が主張したいことは、 

 

δ:価値の高い公共事業ほど、経済厚生を大きく向上させる 

 

という点です。労働の喜びや拘束効果を組み込んでも、できあがった物の価値が高い(前稿でいうWTP総額の大きい)公共事業ほど有効性が高いという点です。

(④参照)』

 

と述べて、公共事業の意義はそれ自体がどれだけ価値の高いモノを作れるかという点にある、と指摘した。ここまでの流れを汲めば、これはつまり、「政府が支出すること」による経済効果という観点で公共事業の優位性を見出すべきではないという指摘であると言えるだろう。

 

私は「γ=βである」と信ずる政策担当者の方が経済厚生の観点で優れた政策を実施できると考えます。現下の財政状況において、または政治状況において財政支出額を無尽蔵に増加させることは出来ません。必ずや優先順位をつける必要がある。だからこそ、厚生の観点からみた経済効果はプロジェクトの内容に依存するのだという観点が必要であると思うのです。

(④参照)』

 

※β=10億円分の穴を掘って埋める工事を発注した場合の経済効果

※γ=定額給付金10億円を支給した場合の経済効果

 

「10億円」という金額を支出したこと、それ自体がもたらす経済効果は同じなのだから、政策担当者が重視すべきはその「10億円」の支出でより多くの「価値」(しかも、政府でしか成し得ないようなそれ)を生み出せるか、であるべきだ。もちろん、それを考慮するには政策を実施した場合の影響はもちろん、そもそも実施できるのか?といった点も考慮しなくてはならない。あらゆる産業が常に供給>需要である保証などどこにもないのであり、どんなに影響面で優れた政策も実施できなければ何もやっていないのと同じなのである。

 

これに対する藤井氏の反論(⑤)は、非常に残念なものになっている。逐一指摘する気も起きないくらい“憶測”に塗れてしまっているためだ。少しだけ触れておくと、

 

もしも、フロー効果がない(つまり、β=γだとするなら)、当方がhttp://synodos.jp/economy/7259/3にて指摘した、下記三点に対して、「YES」と言わなければならないはずです。 

 

1)ひょっとしますと、我々は「無駄なモノ=ストック効果がゼロのモノが作られた場合、それが作られる際に投入された全ての付加価値はゼロである」という強い仮定を引き受けなければならないのでしょうか? 

 

2)あるいは、JR山手線に乗っている人々を、無駄なものに従事している人々と、そうでない人々に分類し、後者の移動サービスだけが「価値」あるものであり、後者の移動サービスは「無価値である」という強い仮説を我々は引き受けなければならないのでしょうか? 

 

3)さらにあるいは、仮に、受注した仕事が最終的には「無駄になる」とうい事が確定していたとしても、取引先から「来てくれ」と言われたら、やはり、その受注業者は、「目的地に行きたい」という(飯田氏がおっしゃる)主観的価値を形成する以上、その受注業者にJR山手線が提供する移動サービスは「価値がゼロ」であるとは言い難いのではないか、という論理を、我々は棄却しなければならないのでしょうか……? 

 

なぜ、『「β=γ」というためには、上記1~3についてYESと言わなければならないのか』という点については、「経済学」について真面目に取り組んで来られた方ならば、必ずご理解いただけるものと、思えてなりません。

(⑤参照)』

 

藤井氏はこれに対して「受け入れがたい……と言う主観的認知を形成している(③参照)」と述べているが、結局のところ「私はそう思う」以上の根拠は無いと言っているに等しい。「フロー効果」と称する無駄な公共事業に従事する際に発生する「民間経済活動」が無価値だったらなんだというのだろう?それは、「無価値だ」と断言する者の人格の問題ではなく、その「民間経済活動」を無価値にしてしまうような政策(無駄な公共事業)の問題だ。そこに論者の真面目・不真面目は全く関係が無い(私に言わせれば最も不真面目なのは藤井氏だ)。

 

結局、①~⑤と通して藤井氏は「GDP統計のルール上、どうしようもないこと」について独自のべき論を展開しただけのように私の目には映ってしまう。例えるなら、「手を使ってはいけない」というサッカーのルール上どうしようもないことに対して、「手を使えないのはおかしい」と文句言っているようなものだ。「人体工学上、手を使った方が高い位置まで届くし、ボールを相手に取られるリスクも少ないのだから手を使うべき」なんてくどくど説明されても「サッカーってのはそういうもんだから」の一言でおしまいである。飯田氏が一番最初の反論で「経済統計を扱う者として「そういうモノなのです」と答えるしかありません(②参照)」と答えているのもそういうことなのだろう。

 

国土強靱化担当として内閣官房参与という要職にある人間なのだから、「公共事業万能論」めいた主張を押し通すのではなく、目下の問題である公共事業における供給制約問題を如何に早く解消するか、という点で論争してもらいたかった(論争どころか、飯田氏の方が具体的な提案をする始末・・・)。GDP統計のルールに不満があるのなら、統計を取っている担当部署なりそこの所管大臣なりと大いに議論すればよろしい。市井の経済学者を捕まえてやることではない。

 

国土強靱化を進める過程で生じる経済効果はハッキリ言って“おまけ”だ(500兆円ものGDPに比べれば数兆~十数兆円の公共事業による経済効果なんてたかがしれているし、供給制約下にあるのならなおさら)。その“おまけ”部分に「デフレ脱却」の使命まで負わせる必要性が一体どこにあるのだろうか?藤井氏には国土強靱化の本来の意義を見つめ直していただき、それを最後まで達成するために何をすべきで、何をすべきでないか、をよく考えてもらいたい。安倍内閣の一員として、あたかも「公共事業以外の経済対策はやるべきでない」「国土強靱化が終了するまではデフレのままの方が都合がいい」などと受け取られかねない発言は厳に慎むべきだ。

 

 

 

とういわけで、今回の藤井飯田論争(?)で出てきた論点をまとめるとこんな感じでしょうか?

 

・完全に無駄な公共事業と給付金とで、(本質的な意味での)経済効果に差はあるか?

・個別の産業の需給能力は財政政策を行う上でのボトルネックになり得るか?

・政府と民間、どちらが「より合理的な投資」を行えるか?

・完全に無駄な公共事業に伴って行われる経済活動の価値は?

 

結論に至ったもの、至らなかったもの、そもそも議論の俎上にも載らなかったもの、と様々ですが、今後また議論が再燃するのかしないのか、まぁ期待しないで待つとしましょうか。