天保の大一揆はここから始まった | ふるさとを調べてみよう

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山口県の明治維新というと吉田松陰や、高杉晋作ら「維新の志士」たちの活躍をまず思い浮かべることが多いと思います。

 

ですが、江戸時代の後期より全国で民衆の政治不信はすでに高まっており、「圧政に屈せず世の中のしくみに従順しない!」という風潮こそ、明治維新の原動力になったといえるでしょう。

 

関ヶ原の戦い以降、権力闘争の末に全国統一が実現し、戦乱のない江戸時代はおだやかな時代だったという印象がなんとなくありますが、庶民の日々のくらしは幕府や藩の圧政のもとにありました。

 

とりわけ、関ヶ原での敗戦により外様大名として萩に移封され、しかも借金財政から始まった長州藩では、財政再建のため開作や四白政策などの策が行われますが、それらは百姓への厳しい年貢の取り立てや苦役に支えられたものでした。

 

そこにきて享保・天明・天保と続く不作、飢饉です。

民衆は自分の食べる米もない状況でさらなる年貢に苦しめられる一方、藩は一部の富豪商家に特権を与えて専売制を敷き、藩の財政再建に注進しました。それが庶民の間に制度による格差、不平等感を生み出したのでしょう。

 

その頃長州藩内で「稲穂の出る頃に動物の皮を持ち込むとその年は不作になる」という言い伝えがありました。迷信とも思えるこの説には、倫理上の一貫性があると私は思います。以下は私個人の想像もありますが、百姓の立場からいえば、農耕のため人と共に苦役を強いられた牛馬は大切に弔われるべきで、その皮を敷物などの贅沢品にして扱うなどすれば祟りがおきて当然、という考え方は当時の庶民感覚としてありえると思うのです。

 

 天保2年、萩往還山口宰判小鯖の皮番所を、通行しようとする中関の商人が駕籠に皮敷物を敷いていたのが発覚し、当人は打ち据えられ、そこから御用商人に対する恨みが暴発し長州全体にわたる一揆へ発展しました。長州藩はいったん、首謀者をきびしく検挙するよりもまず、この騒動をおさめる方向に尽力しましたが、のちに首謀者は捉えられ処刑されました。

 

 天保の一揆発祥の碑は、国道262号線のそばに建てられています。本来の場所は正確にはここでなく萩往還ぞいであったのを、交通量が多く目立ったであろうこの場所に建てられました。近年は付近に看板や建築物が乱立し、この碑も人目を引くことが少なくなったように思います。