わたくし、カトリックの洗礼を受けてから今年の春で満6年になります。
このかん、コロナ禍で教会活動が停滞していた時期が挟まっているため、教会活動への参加の実質年数はあまり長くありませんが、まあ、曲がりなりにもキリスト教徒としてある程度年月を重ねたことになります。
で、そのかんにいろいろ考えたことのひとつは、キリスト教の成立が今から2000年ほど前のあの時代であったことには、摂理的な意味があるということです。
地理的にみて、あのガリラヤ湖畔から死海にかけての土地がアフロ・ユーラシア大陸のほぼ真ん中の水陸の十字路のような場所であること、そういう場所でキリスト教が誕生したことには、摂理的な意味を感じるということは前に書きました。
ガリラヤ湖の緯度は足摺岬と同じ | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き (ameblo.jp)
それに加えて、時間軸の上でも、西暦紀元前後というあの時代には摂理的な意味があると思えてきます。
それは、人類の文書記録の作り方の技術が、あの時代程度の発達段階であったことがもつ意味です。
もっと昔の、古代メソポタミア文明のような、粘土板に楔形文字を刻んで残すぐらいの原始的時代だったら、新約聖書程度の長さの文書を次々に複写して世に広めるのは多大な困難が伴い、文書が散逸してしまう可能性が大きかったと思います。
曲がりなりにも、羊皮紙やパピルスで巻物でも作れば、手ごろな大きさにまとめることができ、持ち運びもさほど不自由でないようになっていたから、新約聖書の四福音書程度の長さの文書なら、多数の写本を作って保存しておくことが可能でした。そして事実あの程度の、要領よくまとめられた文書が、後に読み比べて精査されて「これこれの範囲が正典」と教会によって認定されえたわけです。
これがもし、もっと紙が安価で印刷技術もある世の中だったら、近年の新宗教の場合がそうであるように、教祖が十年や二十年活躍しただけで、その著作だの講話録だのいうものが膨大な量できてしまい、しかも繰り返しが多くて冗漫で、教祖没後、教義の核心は何であるかの認識が、かえってぼやけてしまっただろうと思われます。
四福音書がいずれも、イエスの生涯と事績についてきわめてコンパクトに、核心部分だけを記録した文書となっていて、冗漫さがなく、十分な緊張感をもって短時間で読み終えられ、どっしりと重いものを読者の心に残してくれるようになっているのは、羊皮紙やパピルスが現代の紙よりもずっと高価で、執筆者に「エッセンスだけを書こう」という強い緊張感を与えてくれる時代であったからこそです。
それともうひとつ、イエス・キリストの姿が精密な肖像画や写真なんかで残らない時代だったということも、幸いですねえ。写真なんかがあると、人はその外形にとらわれてしまって、かえって思考を限定されてしまいます。想像にまさる肖像なしです。