わが道を「愚直に行く」しかない | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

岡村孝子ファンならよく知っている↓こんな歌詞がありますね(アルバム『リベルテ』所収「電車」、1987年)。

岡村孝子 『電車』(Official Full ver.) (youtube.com)

 

  誰もが自分の生き方を

  見つけて歩いてゆくけれど

  私は変わらずに

  私でいるしかできない

 

     *     *     *

 

「OLの教祖」と呼ばれた20代の岡村孝子がこれを書いたときと、現在のわたしがそれを聴いて「ああ、わたしもそう」と感じるときの、それぞれの思い浮かべる具体的テーマはまったく違うでしょうが、「自分は自分で、これまで進んで来た道の延長上を愚直に歩き続けるしかない」との思いは、ほぼ同じかと思います。

 

今のわたしが、どういうテーマに関してこの思いをいだいているかというと……以下のとおりです。

 

18年前に『靖国問題の原点』を書いたときは、

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それまでの左翼的な「靖国闘争」が、ホンネでは靖国神社を「宗教の名にも値しない政治的装置」とみなしているのに、法廷闘争の手段としてはひたすらそれが「宗教である」ことを強調し、憲法20条、89条の政教分離を〝闘争の手段〟としてのみ尊重するような傾向があるのではないかということを指摘し、「そういう下心ある憲法擁護論、法解釈論では、素朴な靖国尊重派の心をとらえきれない。靖国神社公式参拝を肯定的に受け止めたがる日本社会の精神的土壌を(最終的にはそれを肯定しないとしても)、法規範の観点から断罪するより、実証科学としての法社会学の観点から冷静にみつめる必要があるんじゃないか」という方向で、問題提起することに重点を置きました。

 

が、その後、マスコミの論調をみていると、そもそもこの問題を憲法の観点からとらえようとする発想自体を最初からもたず、「靖国問題とは中韓との外交問題だ」という薄っぺらい先入観のもとでしかこの問題を論じない者が過半数、いや、八割ぐらいを占めていることがわかり、彼らを啓発するためには、むしろ逆に「今こそ憲法の政教分離規定の意義をみつめなおせ」という方向性をもった議論が必要だと痛感するに至りました。

 

それゆえ、このたび靖国について再び発言するにあたっては、むしろ『靖国問題の原点』とは逆のベクトルこそが必要と考え、まずは「中曽根首相が1985年に公式参拝したのに対して中国政府がクレームをつけたのが問題の始まりだった」とか「首相が靖国神社で自国の戦没者を追悼をすること自体は自然なことだが、そこにA級戦犯まで祀られていることは確かに外交的観点から好ましくないから、せめてA級戦犯だけは分祀するという方向で解決を……」とかいう俗論を、「箸にも棒にもかからない」とズバリ斬って捨てるところから筆を起こすことにしました。

 

そして、「1985年以降の世論、マスコミ、政治家が、憲法の定める信教の自由と政教分離の意義をしっかり見つめ続けなかったところから、そのような迷走が起こったのだ」ということを史料にもとづいて明らかにし、最後のまとめとして憲法20条、89条の意義を宣揚する、というのを叙述全体の背骨として設定しました。

 

出版社にも、そういう線で書きますということで、昨年年頭の時点でご了解をいただき、その方向を目指して史料精読の勉強をし、今年の2月から執筆に入りました。

 

ところでその途中で昨年夏に安倍元首相銃撃事件(7月8日)が起こり、昨年の秋からは、出版界をめぐる情勢は、「カルト問題」というキーワードを含みさえすればある程度の売れ行きが期待できるという情勢になってきました。

 

その時点で(つまり、史料の勉強がかなり進んで、あと2か月ぐらいで執筆にかかれるかなと思い始めたころ)出版社から「カルトと靖国」という切り口に変えてみたらどうですかという、アドバイスをいただきました。別に押しつけじゃなくて、軽い提案というレベルのものでしたが。

 

そのときわたしがつくづく感じたのが、さっきの曲の歌詞じゃないけど「私は変わらずに/私でいるしかできない」でした。

 

統一教会を筆頭に、エホバの証人その他も含めて、宗教2世問題が人権問題としてクローズアップされ、「戦後ずっと金科玉条とされてきた信教の自由も、無制限に認められてよいわけではなく、ある限度を超えれば国家による介入がむしろ奨励される」というのが、鈴木エイトさんや被害者救済訴訟弁護団などの主張ですから、それに相乗りして「靖国もまたカルトとしての側面をもつ」という切り口で、靖国問題に新風を吹き込んだらどうだ、……というのは、本の売れ行きを第一に気にする立場からは、当然の思いつきというべきでしょう。

 

しかし、執筆者の立場からすれば、そういう流れに適応して切り口を変えるというのは、一から勉強をし直すということを意味しますから、とてもとても、わたしのような要領の悪い人間にはできることではありません。

 

それに今回のわたしは、「靖国神社もまた私的宗教法人であるかぎりにおいては、信教の自由を享受する権利がある」ことをまずはしっかり書き(つまり、同神社に対して政治家が「A級戦犯を分祀して、外交上波風の立たない姿に変われ」と命ずるなど言語道断)、そのうえで、そういう私法人としての自由を保障されている靖国神社だからこそ、首相のような国家機関の地位にある者が「公式参拝」などをするのは違憲である、というふうに話をもってゆくのを叙述の肝としているわけですから、「〇〇教はもはや宗教とはいえないカルトだ。国が介入することこそが人権擁護だ」という話とはベクトルが逆になるわけです。

 

というわけで、わたしはただただ愚直に、歩き始めた道をしっかり踏み固めつつ歩かせていただきますと申し上げて、出版社には再確認をしていただきました。

 

その結果、つぎのサイトが「出版社からのコメント」として的確にまとめてくださっているように「忘却された政教分離に立ち返り靖国論の本質を突く」という本ができました。売れ行きは『カルトと靖国』というセンセーショナルな表題を掲げて書いた場合に比べて落ちるでしょうけれども。

ヨドバシ.com - 間違いだらけの靖国論議 [単行本] 通販【全品無料配達】 (yodobashi.com)

 

なお、中野毅創価大学名誉教授からは的を射た書評を賜りました。

(20) 読書のページ on X: "(書評)『間違いだらけの靖国論議』三土明笑著/「政教分離」こそ議論の焦点/創価大学名誉教授 中野毅評 #公明新聞電子版 2023年10月30日付 https://t.co/OLWJsxujIm" / X (twitter.com)