マーガレット・ハミルトンのどういう面を褒めるのか? | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

拙著『夢をあきらめないで――68歳で性別適合手術』は、

 

 

たんに性別適合手術を受けることでQOL(クォリティー・オブ・ライフ)の向上を自覚できた性同一性障害(GID)当事者としての自分自身の体験を述べるにはとどまらず、社会学的な意味での「ジェンダー」(同じく「ジェンダー」であっても「ジェンダー・アイデンティティー(性自認)」という場合の「ジェンダー」とは区別される概念)に関してもいろんな場所で言及しながら書いた本です。そうした記述のひとつとして、コンピューター科学者マーガレット・ハミルトン

 

 

の業績に言及した部分(第六章)があります。

 

その部分の初稿がファイルの形で残っているので、それを下に引用しておきます。ただし、小さい文字にしてある部分は、最終稿では落とした部分です。

 

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(以下引用)

 先日、わたしが書いているブログと同じ「アメブロ」の仲間で、昔から顔見知りだったニュージーランド在住の女性kumikumaさんが、ご自分のブログに、マーガレット・ハミルトンという女性がアポロ宇宙船を危機から救ったという話を英語で子ども向きに書いた本をみつけ、読んだとか、書いておられた。

 マーガレット・ハミルトンは、二十代のころ、マサチューセッツ工科大の研究室の責任者として、アポロ月面着陸のための重要なソフトウェアを開発した人。当時は珍しかった働く母親でもあり、研究室に四歳の娘さんを連れて出勤していたとか。

 娘さんのある行動を見て、宇宙飛行士が同じミスをするかもしれない可能性に思い至り、対処法を考え出したというエピソードがある。

 kumikumaさんのご感想は、「やはり天才というのは『ある現象を見た時にそこから広がる(繋がっていく)脳内のネットワークが膨大なんだな』と感心しました。あらゆる可能性を否定しない柔軟さと想像力もすばらしいと思います」とある。

 宇宙飛行士の犯しうるミスに対処するために、彼女がコードを追加することを提案したとき、NASAは「宇宙飛行士は精鋭ぞろいなのでそんなミスはしない」と、それを突っぱねたが、なんと、本番ではまさにそのミスが起こってしまって、危機的な状況になったそうだ。それを救ったのがマーガレット。彼女なくしては、アポロ宇宙船が無事に地球に帰れることはなかっただろうというのが、事後的な評価だそうだ。

 こういう話に接すると、わたしは心底「負けた」と思う。世の中、何が偉いといって、子育てしながら世界的な仕事を同時にこなしてしまうFTFの人ほど偉いものはない。女性(の身体で生まれている人)は並列的情報処理に長けているからこそ、こういう芸当ができるのだろう。

 ソフトウェアの開発に取り組んだマサチューセッツ工科大学が、もしも当時、「宇宙船を飛ばすためのコンピューター・プログラミングなどというのは、男の仕事であって、女なんかをここで働かせるわけにはいかない。女にはそもそもこんなことへの適性なんかない」と言って最初からマーガレットを締め出していたら……と考えると、歴史上の特定の社会が生んだ性別役割観という意味での「ジェンダー」に過度にとらわれることが、人類社会にとっていかに損失かが、わかるではないか。

 これでわかるように、男性(の身体で生まれている人)と女性(の身体で生まれている人)のあいだで、心のあり方に先天的な差異があるという生物学的事実を認めることと、社会的、文化的、歴史的事情に規定されて決まってきている性別役割観が時代に合わなくなってきている場合には、それを見直すことが必要だと主張することとのあいだには、何ら矛盾はない。

 これらが矛盾すると考えるのは、従来の固定的な性別役割観に固執し、それをすべて生物学的必然によると言いくるめたいゴリゴリの保守派と、性による心の差異はすべて社会の刷り込みだと説明しないと社会改革への提言ができないと考える、見当違いの自称「進歩派」だけである。

(引用終わり)

 

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最終稿から落とした二つのパラグラフのうち、最初のほうは、たんに本のページ数を節約するために、なくても前後の文の理解に支障がないから削ったのですが、二番目のほうは、推敲の過程で「こういう記述を入れることで、むしろ著者のもつ一種の偏見をあらわにしてしまう可能性がある」という忠告をもらったために、削ったものです。

 

わたしが初稿の中に「世の中、何が偉いといって、子育てしながら世界的な仕事を同時にこなしてしまうFTFの人ほど偉いものはない」などと書いたのは、例の『話を聞かない男、地図が読めない女』

の中に出てくる「情報処理に関しては、男性は一時に一つずつの処理しかできないが、一点集中的に深く極めることに長けており、それにひきかえ女性は多くの情報の並列処理ができるが、一点だけに集中して深く極めることは不得意だというそれぞれの特性があり、……」という心の性差論を踏まえてのことだったのですが、そういう書き方は問題があるとの指摘を受けました。

 

不用意にこういう断定的記述をすると、一見ネイティブ女性一般を尊敬し、褒めているような外観をこしらえながら、その実「女はもともと素質的にいって、家事・育児のこまごました仕事をこなしながらの〝ながら〟流でも仕事ができるように生まれついているんだから、その特性を生かして、万事を〝ながら〟流でこなしてゆくような働き方をすればいいんだ」(それにひきかえ、男はもともと、仕事に専念しだしたら、家事・育児のことなんか一緒に視野に収めていることができないように生まれついているんだから、その特性を生かして、一点集中的な働き方をできる境遇を保証してやるべきなんだ。これは差別じゃないんだ)という、巧妙でタチの悪い「褒め殺し」的な性差別の言説をこね上げることになりかねない、ということです。

 

なるほど、これは自分の盲点だったと了解したわたしは、そのパラグラフを落とすことにしました。

 

確かに、昔から名著『生きがいについて』

 

 

の著者として知られる神谷美恵子のような、性差別の激しい時代にあっても「妻として・母として」の役割を果たしたうえで、創造的な仕事もなしとげたという、わたしなんか逆立ちしたってかなわないと思えるスーパーウーマンは存在しますし、現代でも、ユーチューバーで政治評論家の「毛ば部とる子」さんのような、

https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AF%9B%E3%81%B0%E9%83%A8%E3%81%A8%E3%82%8B%E5%AD%90

 

母親業をやりながら、日本の主要新聞だけでなく英語やドイツ語の新聞を読みこなして、ドイツに住んでいながら日々の日本の政治を的確に批評し、自民や維新のバカオヤジどもの言動の矛盾点を完膚なきまでに暴いているスーパーウーマンも存在します。

 

が、「だから女性は偉い。頭が下がる」として、褒め殺して思考停止してしまうのではなく、彼女らがもし雑事から解放されて創造的な仕事に専念することができたら、もっとスゴイであろうことを肝に銘じて、現代社会の性差別をきちんと見据えることが大切だと思います。