引き続き、例の戦争未亡人小栗竹子さんの二冊の著書から引用していきます。
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1964年8月15日
戦後十九回目の終戦記念日を迎えた今日、東京はあの日と同じような暑い暑い日だった。去年から始まった第二回目の全国戦没者追悼式の模様を、私は一人静かにテレビの映像に見ながら、唯々彼をはじめ虚しく散った数多の命が、今更のように惜しく、悲しくてたまらなかった。
あの日、戦没者のお盆の供養のために沓掛の町に出て来た私は、役場のラジオで思い掛けなく聞いた終戦の詔勅にうち砕かれて、人っ子一人通らない日盛りのあの街道を、限りなく涙を流して、声を上げて泣きながら千ヶ滝へ向かっていた。
お国のためと無理にも意味づけて、諦めようと努めていた彼の死が、今やまったく何の意味もなくなってしまったのだと思い知った私は、半ば死を覚悟していた。かわいい息子を苦しめないで道連れにする方法を、色々と思い巡らしながら私は自決する日の近いことを本気で考えていた。
その私が四十五歳の痩身をいまだに永らえ、無心だった幼い息子が二十一歳を誇る青年になったこの十九年の日月が、走馬灯のように回想されるのだ。私にとっては正に死に勝る辛苦の日々だった。しかし私は生きてきた。悲しみはますます深く強くなって行きはするが、やはり生きてきてよかったと思う。生きていればこそ、彼との誓いが果されて行くからだ。でも私が生きて来られたのは息子がいたからだ。もしあの子がいなかったら、私は今まで生きてくることはできなかったと思う。私の生きていることを絶対必要とする者がいなかったら、自ら命を絶たないでも、おそらく自然死をしてしまったことだろう。
切り倒された切り株から辛うじて芽生えたヒコ生えのように、力強く生まれて育った息子に私が期待することは、あの子が人間として意義のある仕事をしてくれることと、健やかな心と体を持つ妻と結婚し、優秀な子供たちを一人でも多く育てて、幸福な家庭を創造してもらうことである。
式の締め括りにアナウンサーが「今ここに菊花を捧げて涙する遺族たちは、ひたすら亡き人を悼むことで一杯で、この犠牲を世界平和に結びつけることなど、考える余裕はおそらくないことと思われます。それは我々がしなければならないことなのです」と言っていたが、私に言わせれば、我が身と我が愛しき人が身を以て払った犠牲の上に、遺族こそ亡き人に代わって、心から恒久平和を願わなければならないのだと言いたい。自らに戦争の爪痕を深く残していない人たちは、一年の中でおそらく終戦記念日の今日一日くらいしか、あの戦争を思い起こすことはないだろう。そういう人たちに、どうして恒久の平和を願うことなどできるだろうか。我々遺族は、ただ亡き人を悼んでばかりはいられない。今こそ亡き人に代わってそれを叫ばなければならないのだ。私はどうしてもそのために私の力の限りを尽そうと決心した。
午後、息子と二人で『日本の戦争』という明治以来の戦争の録画をテレビで見て、私がつくづくと「負けるために死んでいったような沢山の命は、『あのいまわしい軍国主義を壊滅させることができた』ということだけに、僅かの意義があったようなものね」と言ったら、息子が「軍国主義が壊滅したお陰で、僕たちは新憲法を獲得できたのだから、そう考えて諦めようよ。それは求めて得られたものではなく、むしろ押しつけられた形で与えられたものだけど、すばらしいものであることは確かなんだから、僕たちはどうしてもこれを守り抜かなくてはならないね」と言ってくれた。
正に、戦後の日本人が求めずして得た新憲法ではあるけれど、その新憲法の第九条こそ、軍国主義の犠牲になったあの当時の私たちが、心奥で叫び続けた悲願そのものではないだろうか。
それは、虚しく流されたおびただしい血潮のしみ込んだ土の上に、一夜、忽然と咲き出した虞美人草にも似ている。国を憂い肉親を憶いながら死んでいった人たちの魂が、咲き出たものでなくて何であろう。もし、戦没者の霊を慰め得るものがあるとしたら、それこそあの第九条を擁護することを措いて他には、決してないと私は信じる。百万言の追悼の辞より、それらを虚しい言葉の羅列と化さしめないような誠意を、今日この追悼式を施行する人たちに、今後も示していってもらいたいものである。
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1964年といえば、戦後復興の象徴のような東京オリンピックの開かれた年。
全国の戦没者を追悼すると銘打った国主催の式典は、占領終了直後の1952年5月2日に新宿御苑で単発的に開かれたことがありますが、現在につながる年中行事化した終戦記念日の式典は1963年に始まったものです。
初年度の会場は日比谷公会堂でした。靖国神社境内という案を唱えた人たちもいたけれども、政教分離の観点から問題があるということで、その案は採用されず、日比谷公会堂での開催となったものです。これに対して第二年度は靖国神社派が巻き返して、本殿の直接に見える場所にはしないとの条件で会場を靖国神社境内にもってこさせました。しかしやっぱり問題があるということで、第三年度からはオリンピックの遺産である日本武道館を会場にすることが定着し、今日に至っています。
こうした会場選定をめぐる方針の揺れ動きにも現われているように、戦没者追悼のねらいをどこに置くかで立場の相違がだんだん露わになってきたのが、この時代でした。小栗さんはそれら潮流のうち、英霊がどうのこうのという戦前回帰的な潮流からは距離を置くようになっていたことが、上に引用した手記から読み取れますね。