靖国問題で、わたしが本当に言いたかったことは、こうだ(10) | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

この「靖国問題」シリーズは、二月に集中的に書いて、いよいよ問題の核心に迫ろうとしたころ、思わざるコロナ騒動になってしまったため、筆が進まなくなりました。

 

きちんと論じようとすると、あと10回書いても収まるかどうかというほど、書くべきことがあります。しかし、だらだらと続けて締まりがなくなるのも不本意なので、ここでちょっと中締めとして、1997年の「愛媛玉串料訴訟最高裁大法廷判決」が下った直後の、『朝日新聞』の社説を引用し、あれから16年後の同紙駒野剛記者の迷論

といかに違っているかを明らかにしておくことにします。

 

(以下引用)

社説  厳格な政教分離を求めた司法

       朝日新聞 1997年4月3日

 

 愛媛県が靖国神社や県護国神社に玉串料などを支出したことが合憲か違憲かが争われた裁判で、最高裁大法廷は、支出は違憲だとする判決を言い渡した。

 白石春樹前知事(故人)側は「戦没者慰霊などが目的の社会的儀礼にすぎない」と主張していた。

 これに対し最高裁は神社への玉串料などの宗教性を重視して、「国及びその機関は、いかなる宗教活動もしてはならない」と規定した憲法に反すると判断した。

 靖国神社公式参拝などをめぐり、憲法上「許されない活動」と「許される活動」の境界があいまいにされがちな現状に対し、政教分離原則に照らして、明確な線を引いた画期的な判決である。評価したい。

 戦没者を追悼すること自体は、いうまでもなく自然な心情だ。しかし、国や自治体が特定の宗教を援助するような公費支出をすることの是非は、それとは別の問題である。ほかにも、心のこもったさまざまな追悼の仕方はあるはずだ。

 前知事側は、靖国神社を「戦没者慰霊の中心施設だ」と主張したが、そう考えない人もいるだろう。政教分離は、宗教的な少数者も含め、国民一人ひとりの信教の自由を実質的に守る意味を持っている。

 裁判で問題になった県の支出は計十六万六千円だ。「目くじらを立てなくても」という受け取り方もあるかもしれない。

 しかし、厳格な政教分離規定が設けられた原点は、戦前から戦中にかけて「国家神道」が軍国主義の精神的支柱となり、あるいは一部の宗教団体が迫害されたことへの反省だったことを思い起こしたい。

 今回の最高裁による違憲判決は、三つの面で大きな意義がある。

 第一は、各地裁、高裁段階で判断が揺れ続けてきた政教分離問題の解釈に、新たな手がかりを示したことだ。

 津市が神式で体育館の起工式をしたことの是非が問われた「津地鎮祭訴訟」で、最高裁は二十年前に判断基準を示した。憲法が禁じる宗教的活動とは「目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助や干渉になるような行為」というものだ。

 しかし、その基準はやや抽象的であり、結論は合憲だった。

 今回の判決も、判断基準としてはこの判例を踏襲したが、最高裁として初めて違憲となる事例を示した。「地鎮祭」は認められるが、「玉串料」となると違憲だという目安が示されたことになる。

 第二は、この判決が首相や閣僚の「靖国公式参拝」への動きなど、政教分離原則をなし崩しにしようとする流れに対して、ひとつの歯止めとなることだ。

 判決の多数意見は公式参拝に直接言及してはいないが、靖国神社を明らかな宗教団体としたうえで、慰霊の名目であろうと、「特定の宗教団体への特別のかかわり合い」を厳しく戒めた。首相や閣僚たちは、この趣旨を重く受け止めるべきである。

 第三に注目したいのは、政府や国会に対してともすれば弱腰だ、と言われてきた司法が、重要な問題でチェック機能を果たしたことだ。

 憲法が国民に保障する基本的人権は、司法が違憲審査権をきちんと用いなければ、絵にかいたもちになりかねない。今後も最高裁に、こうした問題での毅然とした姿勢を期待したい。

 日本の憲法は今年、施行五十年にあたる。こうした判決の積み重ねが、信教の自由、政教分離など、憲法が掲げた理念を現実に生かしていく道だ。

(引用終わり)

 

これでようやく、わが国に憲法二十条の意義が定着するかと思いきや、わずか四年後の2001年、この判決の意を酌む意志も見識もなかった小泉純一郎が、自民党総裁選での票ほしさに、思いつきで口走った「首相になったら、いかなる批判があろうとも、8月15日に必ず靖国神社に参拝する」との「公約」が、中韓の抗議を呼び込み、それに対して右派マスコミが「内政干渉を許すな!」などと騒ぎ立てたのを境に、靖国神社をめぐる議論は根無し草のように迷走する羽目になりました。

 

「靖国問題の起源は、日本に揺さぶりをかけようと虎視眈々とねらっていた中韓両国が、『靖国神社にはA級戦犯が合祀されている』という口実をみつけて、外交カードとして利用し始めたことにある」などというデタラメな命題を初期設定としてインストールしてしまった頭脳でしかものを考えられなくなった者たちのあいだで戦わされる討論など、いくら耳を傾けても不毛なだけです↓。

 

 

この問題については、ブログでの散発的発信を積み重ねただけでは説得力に限界があると思うので、わたしは近いうちに『靖国問題とは何だったのか』という「そもそも論」的な原稿を書き始めて、出版をめざしたいと思っています。

 

もし本にできたら、帯にはこう書きたいという言葉も、腹案ができています。

「A級戦犯も外国の抗議も本質的な論点ではない。わが国の政教思想の未熟さこそが問題なのだ」

 

 

エピグラフ(書物冒頭に掲げる、それ以後の記述の核心を示す短い引用文)には、次の二つを挙げたいと思っています。

 

①もっとも、戦没者の遺族の中には、「戦没者は国のために戦って死んだのだから、戦前と同じように英霊あるいは護国の神として靖国神社・護国神社に祀ってほしい。靖国神社・護国神社の祭祀によってはじめて、宗教的な慰霊の感情を満足させることができる。」という人もいるであろう。それは、それで自由に行なえばよい。たとえ靖国神社のような宗教であろうとも、現行憲法下では個人の信教の自由は保障されている。(愛媛玉串料訴訟控訴審における一審原告側最終準備書面)

 

②端的に言うならば、わが社会に存在する「靖国信仰」をわが国固有の民族的、伝統的価値として他の宗教法人とは別格の、国家の公的な承認のもとに守るべきものであるか、それとも「靖国信仰」がいかに国家の公的支援を求めようとも、国家の側はあくまで「靖国信仰」は私事の世界で完結するべきものとして自制を求めるべきであるか、ということである。(愛媛玉串料訴訟上告審口頭弁論要旨)

 

(追記)

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