性同一性障害は「病気」なのか否かで、もめたそうです | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

昨日の毎日新聞に以下のようなことが報道されたとか。

https://mainichi.jp/articles/20200708/k00/00m/040/392000c

 

 

サワリだけがウェブ上に公開されていますが、それによると、……

 

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 厚生労働省の精神疾患に関するウェブサイトで、性同一性障害を「病気」とする記載があり、インターネットなどでの批判を受け厚労省が文言を削除したことが8日、分かった。担当者は「ご意見を受け説明文を削除し、今後は現状を踏まえて更新する」としている。

 厚労省の管理するサイト「みんなのメンタルヘルス」では、性同一性障害について「女性なのに、自分は『本当は男なんだ』と考えたり、男性なのに『本当は女として生きるべきだ』と確信する現象」などと表記。「性同…

 

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報道のとおりであれば、最後のほうに書いてある「女性なのに、自分は『本当は男なんだ』と考えたり、男性なのに『本当は女として生きるべきだ』と確信する現象」というのは、明らかに当事者の神経を逆撫でする表現であり、医学的にも不適切な表現です。が、では、現在の医療制度上、「病気ではない」と言っていいのかというと、これも問題です。

 

この点については、拙著『夢をあきらめないで』

https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A2%E3%82%92%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%89%E3%82%81%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7-68%E6%AD%B3%E3%81%A7%E6%80%A7%E5%88%A5%E9%81%A9%E5%90%88%E6%89%8B%E8%A1%93-%E4%B8%89%E5%9C%9F-%E6%98%8E%E7%AC%91/dp/4768458653/ref=sr_1_1?dchild=1&qid=1594270387&s=books&sr=1-1&text=%E4%B8%89%E5%9C%9F+%E6%98%8E%E7%AC%91

の第七章の記述をご参考までにご紹介しておきます。「医療制度上の」と「医学上の」を区別して考えることで話はすっきりすると思います。

 

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疾患なのか個性なのか

 ここでさらに、もう一歩突っ込んで考えると、性同一性障害という名の「疾患」を考えること自体が、そもそも当を得ていないのではないか、という論点が浮上してくる。

 「性同一性障害(性別違和)」は「持って生まれた身体の性別に持続的な強い違和感を覚え、反対の性への帰属感を覚える」という、生まれつきの「心のあり方」を指している。簡単に言えば、新生児一万人のうち五十人ぐらいは、胎児期の脳の形成のされ方ゆえに、将来、自分の身体の性別に違和感を覚え、反対の性への帰属感を感じるような心のあり方で生まれてくる、ということだ。

 もし、そういう生まれつきの「心のあり方」を「矯正」することをもって「治療」と名づけるのであれば、そのような「治療」は不可能であると、すでに精神医学は結論を出している。この点は、同性愛がかつてのように「治療(=矯正)」を要する(かつ、「治療」することが可能な)「疾患」とは考えられなくなったのと、軌を一にしている。それなのに、依然として「性同一性障害(性別違和)」の「治療」について医学があれこれ語るのはどうしてかというと、それは、この場合に関しては、「心のあり方」を「矯正」することとは別の医療行為に、とりあえず「治療」という名をつけているからにほかならない。

 要は、何を「治療」と呼ぶかの問題なのだ。

 同性愛の場合、それが生まれつきの「心のあり方」であって、精神医療的介入によって「矯正」することは不可能だとわかった時点で、医学の果たせる役割は「おのれの守備範囲を自覚してこの問題から手を引くこと」以外にありえないと決まる。性同一性障害(性別違和)の場合も、それを「矯正」しようとする試みから医学は手を引くべきだという意味では、医学の立ち位置は同じである。にもかかわらず、投薬や手術(ホルモン療法やSRS)によって当人の身体の状態を変え、自認の性別での社会生活をしやすくするという手助けは、医学の知識を動員することで可能だ。その意味で、またその意味においてのみ、医学はGID当事者のQOLの向上へ向けて積極的貢献ができる。その次元で「できることはしましょう」というふうに対応するのを、この場合の「治療」と名づけているのだ。

 そのようにして、人の身体に手を加える医療行為(医師免許のない者がやれば傷害罪になるような行為=医師が行なうことで違法性が阻却されるような行為)を行なうにあたり、それに先立って「診断」が下されなければならず、「診断」を下すためには「疾患」概念が必要である……という理由によって、性同一性障害(性別違和)は医療制度上「疾患」となるのだ。だから、これはもともと医学上「疾患」ではなく、医学上は「ヒトの生まれ方のひとつ」、さらに言うならたんに「個性」であると言ってしまっても、差支えはないのだ。

 実際、第一章の注四にも書いたように、近年では医学上の正式名称としては「障害」概念を含む Gender Identity Disorder は使わないことになっており、Gender Dysphoria(性別違和)を経て、さらにはGender Incongruence(仮訳:性別不合)と呼ぶのが医学界の流れになってきている。本書では、今までこの問題を考える際にわが国で最もなじまれてきた用語をとりあえず踏襲しておくという意味で、「GID」=「性同一性障害」の語を用いてきたが、医学的にはもはや「障害」という概念にあてはめること自体が時代遅れとみなされるようになってきているということは、しっかり言及しておくに値する。