(新作】日本陸軍レシーバー対応飛行帽(外ポケットタイプ) | 軍装 製作 赤とんぼのブログ  インスタグラムはこちらです→ ki9.k5y

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日本軍の歴史に興味があり、その歴史を残していく方々の中のひとりになりたいという思いで製作に励んでおります。日々研究し、オーダー製作、修復もしております。ヤフオクに出品中の商品はこちらhttp://sellinglist.auctions.yahoo.co.jp/user/ryotacrash?

こんにちは。

本日は、イギリス ケント州在住 J.W様より、日本陸軍飛行帽レシーバー対応(外ポケットタイプ)のご注文をいただきましたのでご紹介いたします。

着装写真も送ってくださったので、ご覧ください。

Hello.
Today, we would like to introduce an order for an IJA flight helmet receiver compatible (external pocket type) from J.W., a resident of Kent, UK.

He also sent us a photo of Him wearing it, so please take a look.

 

 

 

 

 

~完成品~

Finished product

外側に付いているポケットにレシーバーを挿入します。

Insert the receiver into the pocket on the outside.

 

レシーバーの縁回りにビロード地のクッションが縫い付けられていますので、密着度が高く、固定されます。

A velvet cushion is sewn around the edge of the receiver so that it is tightly adhered and secured.

 

レシーバーが入ると、ポケットが膨らんで見えます。

When the receiver is inserted, the pocket will appear to expand.

 

今回は、台座が無い星章で製作しました。

元々星章無しのものもあり、特別に付けられた方もおられたようです。

Some were originally made without the star insignia, and some were specially added.

 

星章が付いていない飛行帽

Flight helmet without star insignia

 

 

A 台座無しの星章

B 丸い台座に星章

A Star without pedestal
B Star on a round base

 

 

実物

Original

裏側を見ますと、後付けで星章を縫った下糸が見えます。

Looking at the back side, you can see the lower thread where the star insignia was sewn afterwards.
 

 


 

当時の写真を見ていきましょう。

Let's look at the photos of those days.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、ご依頼者様の「来栖良氏のようになれるかな?」という思いがあり、製作に至りました。

下の画像では同じ型の飛行帽を被っておられます。
The client asked us, “Can I be like Mr. Kurusu Ryo? We made it in the image of this gentleman.

In the photo below, he is wearing the same type of flight helmet.

来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日ー1945年2月17日)日本陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。

 

外交官である父・三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれ育つ。アメリカ滞在時は、「ベア」の愛称で呼ばれていた。1927年(昭和2年)に日本に帰国し、暁星中学校を経て、1937年(昭和12年)に横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)に入学。高工時代はラグビー部のキャプテンを務めていた。1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業し、翌4月に川西航空機に入社した。

その白人の血が色濃く出た混血ゆえに、普段から強い偏見やいじめに遭っていたが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まり、周りから容貌について揶揄されることは無く、本人も弱音を漏らす事は少なかった。また、その日本人離れした容貌と175cmの長身から、待合茶屋の芸妓達からは大変な人気があり、満州出張時には現地のロシア人ホステスから同じロシア人と間違われたり、フランスを旅行している最中には、現地人から俳優になるよう誘われたこともあったという。

学校卒業者のため徴兵され、1941年(昭和16年)1月に帝国陸軍の第8航空教育隊に入営。高工時代に航空工学を専攻していたこともあり、航技見習士官採用試験を受験しこれに合格。陸軍航空技術学校を経て、3月に見習士官たる陸軍航技曹長となり第1陸軍航空技術研究所附、同年6月、陸軍航技少尉に任官した。

当時、陸軍は航空エンジニアとテスト・パイロットを融合させた、エンジニア・パイロットの育成をしており、同じ横浜高工出身の航技将校であり、既にエンジニア・パイロットであった親友・畑俊八(最終階級陸軍技術大尉)の薦めもあり来栖はこれに志願、特別操縦学生として1943年(昭和18年)12月、熊谷陸軍飛行学校にて第92期操縦学生らと共に訓練を受け1944年(昭和19年)1月に卒業。
その素質から飛行分科「戦闘」のエンジニア・パイロットとして多摩飛行場(福生飛行場)の陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊に配属される。

航空審査部において来栖は名立たるエースや超ベテラン・パイロットと肩を並べ各種実験の職務にあたり(航空審査部はその職務の性質上、日本軍航空部隊トップ・クラスの人材が集う官衙であり、空中勤務者には一例として荒蒔義次・坂井菴・岩橋譲三・黒江保彦などが在籍していた)、アメリカ生まれの語学力を活かし、B-29の英語マニュアルの翻訳も行っていた。





副生飛行場にて航空審査部によって、テスト中のキ84(四式戦「疾風」)試作機、1943年


1945年(昭和20年)2月17日に航空審査部は、16日からジャンボリー作戦により関東地方を攻撃すべく初襲来したアメリカ海軍第58任務部隊の艦載機を迎撃(本土防空戦時、審査部戦闘隊は臨時の防空部隊「福生飛行隊」として部員操縦者は迎撃任務に当たっていた)、当時陸軍技術大尉の来栖は四式戦「疾風」に搭乗しこれと交戦、無事帰還し小型機1機の撃墜を報告。

二度目の迎撃時、乗機「疾風」の駐機場所まで誘導路上を歩いていたところ、「疾風」の手前の準備線に位置する、同じく迎撃の為に急発進した梅川亮三郎陸軍中尉操縦の一式戦「隼」のプロペラに接触、頭を刎ねられ即死した。26歳没。地上での接地体勢の「隼」の操縦席からは、来栖は死角に入っていたため存在を確認する事ができなかったこともあり、幾ら操縦暦14年半の超ベテランである梅川中尉であっても避けられなかった事故であり、落ち度が無かったとされ不問に処された。

事故直後、来栖の家族には、不慮の事故による死亡では気の毒だという陸軍の配慮もあって、「迎撃戦闘時に被弾負傷、帰還後に死亡」と伝えられ、これが公式発表とされた。来栖の戦死を報道する当時の新聞各社の記事や、戦後の靖国神社遊就館内での展示内容においても同様となっている。



父は来栖三郎(外交官)。
第二次世界大戦が始まった1939年から、ナチス・ドイツにおいて駐独逸国特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結時には日本代表として同同盟の調印式に出席した。


Ryō Kurusu - Wikipedia
 

 

 

 

ご依頼者様のお写真です。

Here is a photo of the client.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆様、いかがでしょうか。