緑商会社長 草野次郎さんについて、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

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昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

緑商会社長 草野次郎さんについて、

の続き、
 
次郎は昭和35年2月に㈲草野商店を解散し、㈱緑商会を設立した、
 
          (昭和35年2月5日 日本模型新聞)
 
この頃にはすでに業界ではプラ製の模型が出回っていたが、次郎としてはまだ模型飛行機に未練があったので、プラ製(プラとは言ってもファームプラといった発泡スチロールのようなもの)の模型飛行機に起死回生の夢を賭けていた、
しかし、業績を挙げるまでには至らなかった、
 
         (昭和35年1月新年号 日本模型新聞)
 
         (昭和35年3月5日 日本模型新聞)
 
         (昭和35年5月5日 日本模型新聞)
 
         (昭和35年6月25日 日本模型新聞)
         (昭和35年9月5日 日本模型新聞)
         (昭和35年11月25日 日本模型新聞)
 
模型飛行機の売上も段々と減少し、次郎はプラスチックモデルへの転向を決意していた、
 
そして、ついに第一弾として「戦艦大和、武蔵」を発売、
その時期は昭和35年の12月であった、
 
 
昭和37年秋ごろ、組合設立の機運が高まり設立の方向へ向かっていたが、設立運動の背後に何かがあり2社のメーカーが突然態度を変えたために保留となった、
次郎はこれではいけないと先頭に立って希望者をとりまとめ、昭和38年4月、「日本プラスチックモデル工業共同組合」を設立させた、(態度を変えた2社のメーカーは加入せず)、
 
その2社のメーカー名について次郎は具体的にメーカー名は明かしていないが、そのメーカーについて次のように語っている、
 
組合を設立する半月ほど前に別の会合の席で会ったので、挨拶すると、
「我々に今まで何の相談もなく、そのような組合を作っても協力は一切できない」との返答であった、
そこで、次郎は「我々の組合は自主組合であるので貴方がたの干渉は一切受けない」と言い返し、真正面から激突することになったという、
 
次郎が感じるには、「彼の思想は、封建時代の代官が百姓、町人に対する横暴さを無意識のうちに相手方に押し付けて行動しているようであった」と語っている、
 
ところで、その2社というのはどこのメーカーだったのだろうか、
もちろん、日本模型新聞にもそのようなゴタゴタの記事は載っていない、
だが、調べてみた、      
           <続く>